讃岐照夫 元東広島市長

「身を律し 誠実に歩んだ頑固親父」

 5期20年間にわたって東広島市のかじとり役を務めた元市長の讃岐照夫さん(84)。  学園都市・テクノポリス建設を軸に、現在の市の骨格をつくり上げた。ひたすら東広島市の成長を願いながら20年間を駆け抜けた。

20年で市の骨格つくった功労者

 県庁時代からさかのぼれば60年間地方行政の発展に貢献した。「百術は一誠にしかず」を座右の銘とし、この一点だけをみつめて汗を流した人である。妻の寿恵子さん(79)に言わせれば、「人に後ろ指を指されたことはない。真面目すぎるくらい真面目な人」。だからこそ、20年間市長職をまっとうできたのであろう。

太田川から県用水導入し基盤整備次々と推進

 西条農学校を卒業後、県庁入り。県職員時代には、戦後の広島復興に向けての大きなプロジェクトに次々と携わった。土師ダムや日本鋼管福山製鉄所の建設、海田湾の埋め立て、広島市・福島町の区画整理事業:。困難な地元との交渉に奔走、それぞれの難題を鮮やかにまとめた。その手腕を買われて、昭和53年、県出納長から東広島市長選に立候補、三つ巴戦を制して2代目の市長に就任した。

無投票で3度目の当選を果たし、
ダルマに目を入れる讃岐さん(昭和61年)
 就任すると、県庁時代に培った人脈と行政経験をフルに生かして、国・県事業の補助金を取り込み、1期目からまちづくりの先頭に立った。行政手腕には本人も自負があった。就任後、まず力を注いだのが、太田川からの県用水の導入。「水がないと何もできませんからね」と振り返るように、自己水源の乏しい東広島市では、水不足の解消は不可欠だった。そして、昭和57年、県用水からの通水を実現させると、重厚大型の基盤整備を次々と推し進めた。

 新幹線東広島駅の開業や工業・研究団地・幹線道路の整備、広島大統合移転の完了、国税庁醸造試験場・JICAの誘致など、短期間で学園都市の骨格をつくりあげた。市民生活と直結する下水道・火葬場の整備や、賀茂広域行政組合を設立してゴミ・し尿問題を解決したことも大きな業績だ。

愛称は「狸親父」 仕事への情熱人一倍

新人王を獲得した東広島市出身の
山内泰幸投手(広島カープ)の祝賀会で
(平成7年)=左から2人目が讃岐さん)
 ただ、文字にすると数行で片付けられるが、どの事業も曲折があったことは、想像に難くない。そんなとき、讃岐さんが心の拠りどころにしていたのが冒頭の座右の銘。「事業には、地域間のしがらみがつきもの。特に《迷惑施設》と呼ばれるものはね(笑)。反対住民が自宅まで押しかけてきたこともしょっちゅうでしたよ。ただ、何事をするにも、心と誠を持って人と接すれば必ず道は開ける。県庁時代に学んだことですが、交渉ごとに駆け引きや小細工は要らんのです。真正面から誠心誠意尽くせば、少々強引でも直球勝負でいい。それと一度決めたら、やり抜くという信念。だから、どんなに反対されても、途中でやめようなんてことは一度も考えなかった。仕事だからね。でもどれも難儀でしたよ(笑)」

初当選を果たし初登庁
する讃岐さん(昭和53年)
 誠実で、一途なまでに頑固。負けず嫌い。そして、讃岐さんと親交の深かった人たちの言葉から浮かび上がる、太い人脈を生かしての行動力と、素早い決断力、仕事への情熱。これら「讃岐流のバランス感覚」が、市長職を20年務め、短期間で数多くの事業をまとめた要因だろう。

 その一途なまでの頑固さと、仕事への情熱を示す裏話を紹介しよう。私たち記者仲間が付けた讃岐さんのニックネームは「狸親父」。なぜ。本人曰く「よう知っとりましたよ。ぼくが記者さんの助言にまったく耳を傾けなかったのと、肝心要の本心をはぐらかしていたからでしょう。記者さんをよう怒らせましたね(笑)」。体調を崩して入院しても、入院先から市長室に直行していたことも有名な話。それも一度や二度ではないから恐れ入る。本人曰く「職員は煙たがっていたでしょうな。四六時中、鬼がいるわけだから(笑)。でも当時、ぼくには休むという2文字はなかった。いや、休めなかったというのが本音。部下に仕事を任せても、最後に責任を取るのはぼくだからね」

スキャンダルと無縁だった20年

ブラジル・マリリア市との親善
都市提携の調印式(昭和55年)
 そして、讃岐さんを語る上で忘れてはならないのは、20年間、事故やスキャンダルとなるような大きな失点がなかったことである。金銭にまつわる政治家の不祥事が後を絶たない中で、とりわけ権力の集中する市長にあってトップであり続けたのは、厳しく身を律していたからだ。政治家にとってつきものの宴席では、酒を断っていた。杯の代わりはウーロン茶だった。別に酒が嫌いなわけではなかったが、「誰々の酒は飲むが、誰々の酒は飲まない、とはいかんでしょう。誘われるままに気を許すと、身体も壊しかねないし。だったら誰の酒も飲まないと。公正中立なのが行政ですからね」。どんな親しい相手でも、利害が絡めば一線を画していた。「そんなに大したことじゃないですよ」と本人は謙遜するが、それすら実行できないのが権力者。自らに厳しく行動してきたからこそ、「厳しく当たった」という職員も付いてきたのだろう。

 ただ、任期を重ねるごとに「マンネリや多選批判」で矢面に立たされてきたことも事実。成果を出し続ける市長として賛辞を送られる一方で、マスコミや一部政財界では、讃岐批判も展開されていた。そのことを本人はどう思っていたのか。「多選批判? そんなことを気にしていたら仕事にならんでしょう。行政は永遠に続くものだし、ぼくの心では、男の引き際は決めていましたから」。少々のことは意に介さなかった頑固親父、いや狸親父の面目躍如たる言葉である。

「ウソつけんからね。スタンスは事務屋」

市民らとジョギングで汗を流す。
左は故財満次平次さん(昭和50年代)
 讃岐さんが市長に就任した当時、東広島市の人口は7万人あまりの純農村地域だった。あれから26年。人口は約2倍に伸び、広島中央地域のリーダー的都市にもなった。

 「ぼくが取り組んできたことは間違っていなかったな。少しは誇ってもいいでしょう」。市長時代の思い出話に花を咲かせた後、問わず語りにこう言った。数々の修羅場をくぐり抜けた生真面目な人の言葉だけに、リアリティがあった。人は成した仕事でのみ評価されるとしたら、決して忘れてはならない人である。

 4年前、四国八十八カ所のお遍路参りをした。「元気に、警察の厄介にもならずに20年間を務めることができたのは、支えてくれた仲間や職員のお陰」。讃岐流の感謝を表した旅だった。

 最後にこんな質問をぶつけてみた。
「生まれ変わっても政治家を目指しますか」
 「断っとくけど、ぼく自身、政治家と思ったことは一度もないですよ。嘘をつけない人間だから(笑)。事務屋でしたよ。そう、事務屋としてなら、また首長をやってみたい。20年間の経験を踏まえて、もっといい仕事をしたい。もっとも今でも、ぼくだったらこうするのに、と思うことがある。性分だからしょうがないでしょう」
 市長職を退いて6年。東広島を思いやる気持ちはいささかも衰えない。年を重ねても讃岐照夫は讃岐照夫なのである。

【さぬき てるお】
 大正9年10月29日生まれ。県立西条農学校卒業後、県庁入り。都市計画事務所長、土木建築部監理課長、土木建築部次長、商工労働部長、民生部長、出納長などを経て、昭和53年、市長選に立候補。初当選を果たした後、平成10年5月まで5期20年間にわたって市政のかじ取りを担った。短期間で学園都市の骨格を整えた手腕は高く評価されている。11年には、その功績から勲三等瑞宝章を受章。現在、県共同募金会会長、県国民年金基金理事長。趣味はゴルフ。

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