2007/8/25

大阪西成 あいりん地区は今
 本紙取材班が潜入体験ルポ


▲暑い夏のあいりんには高齢者の姿ばかりが目立った

 大阪西成・あいりん地区。日本有数の労働者の街。偽善的≠ネにおいが濃い官製ネーミング(愛隣)より、かつて呼ばれた「釜ケ崎」の名前を今も使う住民は多い。流行歌に「ここは天国、ここは天国釜ケ崎」と歌われた。しかし万博、バブル経済という良き時代も去り、今は長引く不況期と高齢化で、労働者はなんとか毎日をしのぐのがやっとの状態が続いている。弊紙では、そんな街の昔を知る記者とまったく初めての記者で取材班を結成し、今の「あいりん地区」を訪ね、ドヤ(簡易宿泊所)に泊まり、労働者と酒を酌み交わした。

仕事求め 早朝から列

 労働者の朝は早い。早い者勝ちだからだ。職業安定所などが入る「あいりん総合センター」のシャッターが上がるのは午前5時だが、それ以前に下請けや孫請け企業の求人係である手配師がマイクロバスを乗りつけている。1日の求人は2000人台で、盆明けでも3000人ちょっとが最近の求人状態。これに対して求職の労働者は約10倍。アブレないためには午前3時には起きて、同4時までにはセンターに行っている必要がある。

 「行かんか、行かんか」と呼びかける手配師が労働者を乗せる車のフロントガラスには、白い紙が張られ、労働条件や日当が書かれている。今は9割が建設土木で、日当は1万円ほど。ガードマン7000円というのも見かけた。

 手配師が真っ先に声をかけるのは、40代の若手層ばかり。年配の労働者は「おこぼれ」を待つ身でしかない。高齢化が進むだけに、大きな問題となっている。

日雇い労働者数は最盛期の4分の1

 日雇労働者の数は年々減少している。二〇〇五度の「あいりん労働公共職業安定所」の「白手帳」(雇用保険日雇労働被保険者手帳)を持つ人は約6500人。最盛期の4分の1にすぎない。理由は高齢で労働ができなくなった人が多くなっているからだ。

 アルミ缶やダンボールの回収に転身するケースが少なくない。アルミ缶は高い業者でも、キロ当たりの買い取り価格が100円程度でしかなく、1日の稼ぎが数百円というのも珍しくない。ダンボールや新聞紙の相場は、キロ1、2円なのだから、これは当然「アオカン(野宿)」どころか、1食も食べられない。

 労働者の組合やキリスト教の団体が協力しあいながら、労働者の支援を行ってきた。三角公園では火・土曜に1500から2600食、四角公園では「おかゆ」だが毎日2回、炊き出しを実施している。

 また毎年、お盆の12日から15日まで「釜ケ崎夏祭り」を開き、帰郷もままならない労働者に楽しい一時をプレゼントしている。盆踊りのほか、のど自慢に相撲大会、綱引き、名人会とイベントは盛りだくさんだ。ちなみに毎年決めているスローガンは今年は「打ち上げようワシらの声」だった。

アオカンに路上賭博… 多機能広場と化す三角公園


▲古着のプレゼントに長蛇の列

 西成署から少し南に行った三角公園は地域の多機能広場として利用度が高い場所だ。ドヤ代もままならない労働者が「アオカン」場所として使うこともあれば、宴会や会合場所にもなり、支援団体の「炊き出し」が行われ、お盆の「釜ケ崎夏祭り」などのイベント会場にも使われる。

 周辺には暴力団事務所がひしめき、「路上賭博」のメッカとして知る人ぞ知る場所でもある。簡易テーブルを取り囲む数人の労働者。握った100円玉を、丁半に分け示した板上に置く。サイコロ賭博だ。賭博はサイコロだけでなく、コインなど数種類がある。

 近くのビルの一室を賭博場にしている組織もある。時折摘発されており、なかには「店」として常設の、全国の公営レースが賭けられる観戦モニターを並べた「ノミ屋」も存在する。

 覚せい剤の路上密売も多い。物欲しそうな顔をしてキョロキョロ歩いていると、売人に声をかけられたりする。特に他府県ナンバーの車でゆっくり走れば、複数の売人が寄って来ることになりかねない。

 このほか南海電鉄の高架下を中心に、地域のいろいろな場所で路上販売は盛んだ。大型ゴミから拾ってきた家具や電化製品など。格安スポーツ新聞や雑誌を並べるおっちゃんもいる。ちょっと高級な露店もある。偽物かどうかは不明だが、高級ブランド品の財布やバック、腕時計まで売っている。ウインドー・ショッピングが好きな人は、ぜひ1度露店を冷やかして歩いて見るとおもしろいかも。ただしトラブルは自己責任で、どうぞ。

缶ジュースが50円?

 不思議だ。街を歩いていて目に付く清涼飲料水の自動販売機。その横っ腹に「¥50〜」「¥60〜」と大書されている。つまり一般的には100円とか120円のジュース類が、50円や60円で飲めるというわけだ。

 例えば有名メーカーの缶コーヒーが50円。オレンジの炭酸飲料が60円=写真=だった。飲んでみたが、味に妙なところはまったくない。数日後の今も、誰1人として腹の具合が悪くなった者はいない。別に格別、腸が丈夫なわけではない。むしろ弱い記者もいた。

 「賞味期限切れ寸前の商品だ」との噂が流れていた。しかし缶の底を確認すると、いずれも来年の6月とか7月の日付になっていた。

 となると仕入れのテクニックだろうか。この疑問はいずれ紙面で取り上げますので、お楽しみに。

 いわゆる総菜屋さんは「どれも100円」という店があるなど、やはり安い。しかし街の普通の食堂は他の町とそうは違わない。あいりん総合センターの中にある食堂を行きつけにしている朝が早い労働者は多い。朝の定食は200円台、300円台と安い。が6時に行っても「売り切れです」で、普通にごはんとおかずを頼むと、1人500円内外になった。まるで安くない。

 酒を飲める店は多い。朝から開いている。酒で憂さを晴らすだけが、明日の肉体労働へのエネルギーなのだ。そしてカラオケが付きもの。どこの店でも、たとえ立ち飲み屋でも、マイクの声が響いているのが、この街だ。

一泊1000円台でも快適≠ネドヤ


▲女性は入れません

 200軒近いドヤはいずれも高層で、ビジネスホテルやマンションと見まがうばかりだ。そんな風になったのはバブル景気の80年代後半からだという。ドヤとは日雇労働者の隠語で、宿を逆さに読んだもの。労働者を対象にした簡易宿泊施設のことである。

 不況が長引く今、ドヤの宿泊費は、高騰したバブル時代の2、3000円よりは少し下がっている。地区内をくまなく歩き、料金を見て回ったところでは、最低クラスが800円、最上級クラスは2000円で、ほとんどが1000円台での3段階ほどの料金システムとなっていた。


▲狭くてもマイルーム

 地区のメインストリート「釜ヶ崎銀座」。午後8時には、すでに数軒のドヤで「満室です」と断られた。チェックインしたのが「1泊1100円」。平均よりもかなり低目の料金といえる。1人が手足を伸ばして寝られる広さだが、閉所恐怖症でもない限り、そう困ることでもない。エアコンとテレビが完備で、シャワーも午後8時半までだが共同で使え、シーツは清潔と、思った以上に快適だった。「料金面からすると、梅田あたりのビジネスホテルよりも良い」とするビジネスホテルを常連とする記者の弁にも納得だ。

 ここがドヤ街になったのは、1903年に天王寺公園で開催された「第5回内国勧業博覧会」の影響で、当時は長町と呼ばれていた日本橋筋の南部分界わいに並んでいた「木賃宿」などが強制移転してきたため。その後、昭和初期の恐慌時代以降、単身男性の日雇労働者が集中する受け皿的空間となった。

 最近は宿泊費の安さから外国人バックパッカーに人気があるそうだ。2002年のFIFAワールドカップで来日した外国人の口から広がったとか。さらに最近では、アジア系外国人労働者が地区内で増加している。どうやらドヤも国際化の波にのみ込まれつつあるようだ。

昔のあいりんは… 記者の記憶をたどる

 あいりん地区が最も活気に満ちたのは、日本が高度経済成長の波に乗り、どこもかしこも建設ラッシュとなった時代だ。さらに大阪は万博景気に沸き、全国から労働者が集まった。当時、出稼ぎにやって来た労働者たちはあいりん地区を根城に建設現場に通っていた。

 これで儲けたドヤはその後の数年で、ほとんどが建て替えを実施。中層の4、5階建てだったが、それでも当時としては立派なビルだった。

 しかし利用者の高級志向で増やされた「個室」とは、ベニヤ板で仕切った名ばかりのものであった。もちろんエアコンなんて気の利いたものがあるはずもなく、夏の暑さはとても寝られたものではなかった。シーツも洗濯してあるものは別にお金がいったはずだ。部屋は汚く、南京虫だか、体がかゆくなった。酒で酔わなければ眠れなかったのが普通であった。料金は1泊が500円から700円だった。

 路上賭博は「街頭賭博」と呼ばれていたはずで、詰将棋やマジックでよく見る「隠したコップを当てる」ゲームなどが主流だった。路上販売では、売るものがなくて、自分が履いていた靴を草履に履き替え、目の前に並べたのに驚かされた記憶がある。当時聞いた話では「片方だけの靴」を売っていた剛の者がいたとか。

 今はすっかり少なくなったが、公園や路上での酒盛りはここの最もポピュラーな光景として頭に残っている。路上で酔いつぶれた人物も誰も気にかけないぐらい多かった。酒屋や飲食店の店頭での小競り合いは今でもあるのだろうが、ケンカはもっと多かった。

 大きな暴動は1961年、66年、67年、そして久しぶりの90年に起きているが、酒屋やパチンコ店をターゲットにした「小さな騒ぎ」は毎夏、蒸し暑い夜の恒例行事のように起きていたように思う。


あいりんの歴史

1945年 大空襲で地域は廃墟に。
1961年 8月 1日 交通事故死した労働者の扱いをめぐって、第1次大暴動が発生。
1963年 小さな暴動騒ぎが数回。
1966年 5月28日 火事をきっかけに群集が暴徒化で、第2次暴動。この年から「釜ケ崎」が「あいりん」となる。
1967年 6月 2日 飲食代金を巡るトラブルが第3次暴動に発展。
1970年 大阪万博が開催。10月に「あいりん総合センター」オープン。「アブレ手当制度」始まる。11月支援団体「釜ケ崎キリスト教協友会」が発足。
1990年 10月 2日 警官と暴力団の癒着疑惑が暴動に。
2002年 ワールドカップで外国人バックパッカーの宿泊が増える。

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