週刊大阪日日新聞

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2017/12/9

「梅田墓」の謎に迫る 

200体以上の人骨見つかる


▲重なり合って見つかった人骨(大阪文化財研究所提供)

 JR大阪駅北側の再開発エリア「うめきた2期区域」(大阪市北区)で、江戸〜明治時代にあった「梅田墓」の発掘調査が行われ、埋葬された200体以上の人骨が見つかった。梅田墓は江戸期に庶民の間で流行した盆供養「大坂七墓巡り」の代表的な1カ所だが、詳しいことは分かっていない。実態に迫る調査は初めてで、当時の大阪の都市構造や町衆文化を解明する貴重な手掛かりになりそうだ。

 「こんな都心部で人骨が出るなんて…。墓があったのも不思議な気分」。発掘現場の近くで野菜販売店を営む田中見歩さん(28)は興奮気味に話し、「まちの歴史を見詰め直すきっかけになりました」 と続けた。

 梅田墓は江戸初期に点在していた墓を旧曽根崎村に集めたのが始まりとされる。1900年代初めまで機能していたとみられるが、大阪駅北側の再開発で当時の面影はない。

多様な埋葬形態

 調査を担ったのは大阪市教委と大阪文化財研究所。うめきた2期区域の工事を機に2〜6月、約700平方mを発掘した。1890(明治23)年の古地図から推測すると、今回の調査区域は梅田墓のほぼ中央を縦断する。

 「生々しい姿の人骨がさまざまな形で出てきて驚きの連続でした」。市教委文化財保護課の主任学芸員、佐藤隆さん(56)は振り返る。棺おけに座ったまま入った状態や、土を覆っただけの簡単な土葬、火葬されてから骨つぼごと穴に埋められたり、骨つぼに入れず重なり合っ たものも見つかった。


▲錦絵「七墓巡りの図」(長谷川貞信作)を掲載した1935年発行の雑誌「上方」。かねや木魚を打ち鳴らして練り歩く様子が描かれている(大阪市立中央図書館所蔵)

 市教委によると、骨つぼには住所や名前、没年が墨で書かれていた。住所は「曽根崎村」との記載が最も多く、このほか「海部堀川町」(大阪市西区)や「上福島村」(同市福島区)などの地名もあった。

 六文銭、とっくりのミニチュア、かんざし、おはじき…。人骨の周辺からは多彩な副葬品も出土した。調査区域の北側と南側の3カ所で、墓の範囲を区画するための石垣も確認されたという。

実態解明へ

 そもそも梅田墓は謎が多い。七墓巡りは江戸後期に男女のデートコースや肝試しの意味合いもあったとされるが、現存するのは蒲生墓地(同市都島区)と南浜墓地(同市北区)のみ。近松門左衛門の「曽根崎心中」や井原西鶴の「好色二代男」にも登場するが、史料は少なく、実態解明が課題となっていた。

 同研究所の調査課長、高橋工さん(55)は今回の調査を「近世から近代に至る大阪の墓制史と七墓を知ることができる大きな成果」と指摘。多様な埋葬について「貧富や身分の差によるものだろう。宗教的な考えも影響しているのかもしれない」と推察する。


▲六文銭やとっくりのミニチュアなど出土した副葬品(大阪文化財研究所提供)

 大阪市内でこれほど多くの人骨が一度に出土するのは初めてで、医学の専門家らが性別や年齢層、栄養状態などの分析を進めている。墓域を特定することで当時の町の規模も推測できるという。

 佐藤さんは「墓の実態にとどまらず、当時の庶民生活の一端がさらに明らかになる」と話している。

大阪市史料調査会の
古川武志調査員の話(日本近現代史)

 七墓巡りには、さまざまな側面があり、例えばレクリエーション、子どもの大人への通過儀礼的なものもあったようだ。今の梅田は大繁華街であっても、町の中心部にお墓を造ったりはしないので、当時は町外れだったことが推測される。今回の調査では、江戸期の町中心部と郊外の関係性が分かるだけでなく、当時の土地利用や近郊農村の役割も解明できる。


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