週刊大阪日日新聞

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2019/7/27

町を訪ねて「黒門市場」

日本一のインバウンド商店街を目指す


▲インバウンド客で平日も朝からこんな混雑ぶりである

 「大阪の台所」と呼ばれる「黒門市場」(中央区日本橋)。近くにミナミの繁華街を控え、プロの料理人が仕入れる市場としてのイメージが強かったが、ここ最近は外国人観光客の 食べ歩き<Xポットとして脚光を浴びている。大阪が生んだ作家、織田作之助もたびたび作品に登場させた黒門市場を改めてクローズアップしてみた。

高級串が飛ぶように売れる

 祭りかイベント会場かと見間違うほどの人混みだ。市場内の通りはまっすぐに急いで歩くのは困難だ。両側の店頭には、立ち食い≠オやすくカットし、串に刺すなどした、調理加工済み食品がずらりと並ぶ。

 ざっと見て回っても、ウナギ(1串小1100円とか大2000円)、てっさ(小1700円、中2500円)、焼き魚(サバ500円、カレイ600円)、マグロ(ブロック2000〜8000円)神戸牛(1串2500円)と少々高く感じたが、プロの目利き≠ノいわせると「あの品なら、あれぐらいはいく」という。さすが高級食材を売 り≠ノする市場だけに「他所とはモノが違う」というわけだ。

 しかも飛ぶように売れていく。買い求めるために列をつくり、記念写真に納める。騒々しく乱れ飛ぶのは外国語。「90%が外国人」(黒門市場商店街振興組合山本善規理事長)と推測される。ちなみに客が使う金額は1万円未満が48%、1万円台が32%という。これが「日本一のインバウンド商店街を目指している」黒門市場の今や日常風景である。

 かつて近くのミナミの繁華街にある飲食店を得意先とする「プロに提供する食材の市場」のイメージとはまるで違っている。もっとも表とは別に、いまでも料理屋などに配達している店が少なからず「ある」。

 現在、173店舗。うち鮮魚店や青物・果物店、精肉店に、菓子や衣料なども含めた物品販売業が128店と大半を占める。


▲黒門市場は立ち食い%V国だ

万博などでさらなる増客も

 同組合が実施している通行量調査(毎年3月、10カ所の定点で調査)によると、2017年度は人出が最も少ない水曜日で2万9198人、多い土曜日が3万8018人。それを外国人客が目立つようになった2013年度と比べてみても、それぞれ154%、148%という大きな伸びを示しており「まだまだ増えている」というから驚きだ。しかも「今後も万博など、大阪には世界中からさらに客がやって来ることが予想できる。これからもインバウンド客に喜んでもらえる市場運営をしていきたい」と山本理事長は明確に見据える。

 ところでインバウンドでは発生するゴミが問題になっている例がある。黒門≠ナも当初はゴミの「ポイ捨て」が多く、近隣住民から苦情が来たり、市場内でも「インバウンド客を嫌う人もいた」。そこで組合はゴミ箱を各店の前に設置するだけでなく、各辻にも置き、清掃の業者も雇ってゴミ処理を実施した。「自分の店のゴミだけでなく、客が食べ終えて持っている串などのゴミは他店のものであっても、積極的に受け取って処分する」ように指導もしてきた。そのかいあって「リピーターが多いので、2015年ぐらいからはマナーが良くなり、最近はちゃんとゴミ箱に持って来る」。組合ではさらに多言語の注意書きも制作中で、ゴミ問題のシャットアウトを目指している。


作家・山之内幸夫氏に思い出を聞く

 「いやあ、もう全然違ってしまって、あんな風になるなんて想像もしていませんでした」

 黒門市場の変貌に驚きを隠せないという山之内さんは、幼少年から高校卒業まで、昭和30年代を父親がやっていた市場の鮮魚店「魚重」で過ごした。

 「生玉さん」(生国魂神社)での「セミとり」や「カメ釣り」(かつてあった蓮池で)、市場の東側にあった掘割(高津堀川)での「小鮒釣り」、空き地でキャッチボール程度の草野球といったところが、当時高津小学校に通っていた市場の子どもたちの遊びだった。「向かいの今もあるカシワ屋≠フ子どもとは仲が良くて、糸電話を引いて遊んでいた」。当時はほとんどの店が住まいも兼ねており、従業員も住み込みが常態だった。「後に2階建てにしたが、それまでは10坪(約33平方m)ほどの7割が店で、残りの狭いところに、家族5人に従業員2人の計7人が寝なければいけなくて、頭と足を交互に反対向きに寝ていた。わたしは押入れが一番広かったので、ずっとそこで寝ていた」と懐かしがる。

 「店の手伝いはよくした。親父は木津市場に仕入れに行くと、朝飯に寿司を食べる。それを食べたくて、5時には出かけた親父を、6時ごろに追いかけて行っては合流した。仕入れた魚は簡単にさばいて、料理屋やホテルなどに、トロ箱を自転車に積んで配達。昼からは魚を焼いたり、刺身にしたものを店頭販売。ハモ、アジ、ウナギ、タイ、ハマチが多かったが、そのうちフグが増え、扱いの中心になっていった」

 高校卒業の直前まで「店を継ぐつもりだった」。それが弁護士へと進んで、今は小説家。店は父親の代限りで廃業している。

 「毎日の夕食は売れ残った魚ばっかり。もう食傷気味だったが、これが東京に行ってからは恋しくて、恋しくて=B(黒門は)やはり鮮度もいいし、高級なものを置いている。他とは違う」と口にする。


市場での美魔女≠フ一言が生んだ
スッポンコラーゲン化粧品


▲鮮魚店店頭に化粧品ショーケースが

 黒門市場で70年の歴史を持つ鮮魚店「新魚栄」はスッポンを一口大にさばいた「鍋セット」を販売し、ギフト用として人気商品になっていた。スッポンは最高級のコラーゲンの塊である。「これを料理や健康食品に活用するだけではもったいない」という思いをずっと抱いていた網干貴之社長に、常連の女性客から寄せられたのが「スッポンコラーゲンで化粧品を作ってみたら」という声だった。そこから老舗魚屋の、場違い≠ニも見える化粧品への挑戦が始まった。

 素材のスッポンを通常の倍の2年間かけて、ストレスを与えないで育てたのは静岡県の焼津水産高校の生徒。抗生物質は一切使わずに、自然環境に近い状態で育てる。一般的なスッポンとはまるで違い、プリッとしている。 「本当のおいしさは確かな素材から生まれるものだ」と考える網干社長は焼津水産高の情熱に惚れ込み、同高のスッポンを化粧品材料としても使うことにした。


▲中山さんが表紙をかざるカタログ

 そして高純度のコラーゲンを抽出したのが、近畿大学の医療薬学科の多賀淳准教授を中心としたチーム。老舗の目利きの力。水産高校の情熱。近大の研究開発力。この3つがうまく結合して、スッポンコラーゲンを使った新しい化粧品が2013年に誕生した。

 大手化粧品会社のように宣伝費はかけられない。すべて口コミに頼った。そのため軌道に乗るまでに2年かかってしまった。アイデアを提供した女性客の看護師、中山秀子さんも一役買った。網干社長に懇願され、美魔女コンテスト≠ノ出場し、ファイナリストになったうえで自ら商品のカタログにモデルとなって登場。

 そして現在は7種類のスッポンコラーゲン基礎化粧品を販売する子会社「クロモンコスメティック」の社長に就いている。

 販路は広がっている。東京、さらに今年6月下旬から中国に輸出され、北京の百貨店などで売られている。「次はタイ」でも発売される予定。黒門≠ェ生んだコスメは世界へ飛び出した。


黒門の名は寺の山門から


▲1992年12月31日のにぎわい風景


▲黒門公園には江戸時代に市場の南東にあった「天王寺村銭座跡」の石碑が建っている

 江戸時代に書かれた随筆「摂陽奇観」に、文政5、6年ごろから、泉州方面から来た魚商人が「なぐれ魚(売れ残った魚)を持ち寄りて日本橋にて売りさばく事、南陽の繁昌なるにや」とあり、これが市場の発祥と考えられている。

 「黒門」の名は堺筋に面した日本橋2丁目に「園明寺」という寺があり、その黒い山門が所以(ゆえん)である。昭和初期ぐらいまでは「園明寺市場」と呼ばれていたそうだ。この寺は明治末期の、いわゆるなんば焼け≠ニいわれる大火で焼失してしまい、移転している。余談になるが、江戸時代に天満の牢獄から千日前の刑場に送られた罪人は途中、この黒門をくぐって首切り場へ行ったという。

 正式に市場として認可されたのは1902年。なんば焼け≠竦謔フ大戦と、2度も市場は焼失を経験したが、戦後もいち早く復興し、戦前と同じく活気ある市場として知られた。とくに年末は身動きできないほどの盛況ぶりが今も、歳末風景≠ニしてマスコミに取り上げられる。



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