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2019/6/13

広島には「東広島」がある!

第三章 広島人はなぜ、グローバルな発想が得意なのか
日本酒の力名だたる銘酒で外国人も取り込む

岩中祥史「広島の力」(青志社)より

 「デオデオ(現エディオン広島本店本館)」を「ダイイチ(経営母体が第一産業株式会社だったことから)」と言ったり、広島バスを「赤バス」、広電バスを「青バス」と呼んで区別したり、相生あいおい通りのことを「電車通り」と呼んだりするとなると、これはもう筋金入りの広島人だろう。

 しかし、20代半ばの女性が「東広島市」を「西条さいじょう」、「広島港」を「宇品うじな港」と言う場面に接したときは、筆者のような非広島県人でも、やはり「えーっ!?」と思う。お年寄りになると、JRの列車のことを「汽車」などと言うこともあるらしいが、それは致し方あるまい。だが、若い人の口から「西条」だの「宇品港」が出てくると、やはり驚かざるを得ない。

 「宇品港」など、1932年に「広島港」と改められているのだから、彼女の親の代でもどうかといった感がする。だが、広島県人にとって広島の港はいまでも「宇品」というイメージが焼きついているのだろう。

 一方、東広島市が誕生したのは1974年だから、いまから40年以上も前のことだ。賀茂かも郡西条町・志和しわ町・高屋たかや町・八本松はちほんまつ町の4町が合併して市制が施行され、その後2005年に、同郡黒瀬くろせ町・河内こうち町・豊栄とよさか町・福富ふくとみ町・豊田とよた安芸津あきつ町も編入した結果、いまでは人口も19万を超えている。

 たしかに、東広島市が発足した時点で人口がいちばん多かったのは西条町で、その前年で2万6千余を数えた。広島県内でも古くから開けていた町であることを考えると、当然かもしれない。

 それを示すのが同市西条中央にある三ツ城みつじょう古墳群で、県内では最大の前方後円墳だ。3基の中でいちばん古い第1号古墳が作られたのは5世紀前半(412年ごろ)だという。

 律令りつりょう制度のもと、安芸に国分寺が建立されたころ(741年)は、政治の中心である「国府こくふ(その国の政治の中心。現在の県庁にあたる)」も置かれていた。そもそも、「西条」という地名自体、国府の条里じょうり制に由来する言葉だから、かつては「東条」もあったし、両者を合わせて「東西条とうさいじょう」と呼ばれた時期もある。

 JR山陽線・西条駅の150メートルほど北にある御建みたて神社は8世紀初めごろの創建で、素戔嗚尊すさのおのみことまつられている。706年、諸国に疫病が流行したとき、素戔嗚尊に祈願したところそれがんだことから、人々がやしろを建てたのだという。

 また、2005年に消滅してしまったが、「賀茂」という郡名は、かつてこの一帯が京都の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨しもがも神社の総称)の荘園であったことに由来する。これほど古い時代から西条一帯では人々が活動していたのである。

 江戸時代の寛永かんえい年間、1630年代に、西国さいごく街道の宿場(西条四日市よっかいち)に指定された。しかも「本陣」が置かれたため大いに栄えた。

 「本陣」とは、その地を治める大名が泊まる宿のことをいい、地元の名家が営む場合がほとんど。しかし、西条四日市の場合は藩の直営であった。そのため、他藩の大名、幕府の使い、勅使ちょくし(天皇の使者)などが泊まることもしばしばだった。

 西条四日市では「本陣」を「御茶屋」と呼んだが、この時代、藩内には9カ所の御茶屋が置かれていた。西条四日市のそれは最大規模を誇り、敷地は1488坪(約4910平方メートル)、部屋数も29を数えた。


岩中祥史(いわなか よしふみ)
 1950年11月26日生まれ。愛知県立明和高校から東京大学文学部に進み、卒業後は出版社に勤務。1984年より出版プロデユーサーとして活動するとともに執筆活動も。地域の風土と人々の気質との関係をテーマに、『名古屋学』『博多学』『札幌学』『鹿児島学』『新 不思議の国の信州人』『新 出身県でわかる人の性格』『名古屋の品格』『城下町の人間学』など著書多数。2011年の上梓した『広島学』はご当地広島の人たちをも驚かせる内容で、ベストセラーになった。


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