ザ・ウィークリープレスネット

 記事検索

2018/9/27

なんと目の前が海だった広島城 岩中祥史「広島の力」(青志社)より

第一章 広島人はなぜ、屈託のない性分なのか
ハンディをバネにする力/鯉の力 意外に粘っこい広島人

>>/9/13号から続く

 そうした観点からすると、「広島」という地名も実は深い意味を持っていることに気がつく。

 ご存じかもしれないが、「広島」という地名は意外と歴史が短い。戦国時代末期、毛利輝元てるもとが現在の地=太田おおた川河口部に城を築くことを決めたのは1589年。当時の太田川はいまと違い、現在の広島城のあたりまでしかなかった。

 河口の先は瀬戸内海だが、そこには多くの小さな島が点在しており、比治山ひじやま江波山えばやま黄金山おうごんざんもすべて島だった。その当時は、それぞれ日地ひぢ島、江波島、仁保にほ島と呼ばれていたそうだ。当時の島でいまもなおその文字が残っているのは白島はくしまくらいだが、それもかつては箱島はこしまと呼ばれていた。

 築城の場所をこの地に定めたのは、それまで居城としていた山間部の吉田郡山こおりやまから下りてきて、瀬戸内海を望む高台=明星院みょうじょういん山(現東区二葉山)、新山にいやま(現東区牛田うした)、己斐松山まつやま(現西区己斐)の3カ所から検分し、「もっとも広い島(実際には2番目らしいが)」と目された五箇浦ごかうら五ヶ村ごかむらとも)というごく小さな集落の周辺に目星をつけたのである。

 集落といっても、漁師の家が数えるほどあるだけで、ほかにはほとんど何もない浜辺だったにちがいない。だが、この時期の毛利氏は140万石という戦国の雄である。いくらなんでも、それほどさびしい場所に城を築くのは、プライドに関わると思ったのではないか。

 輝元でなくても、土地が「狭い」というのはけっして愉快なことではない。そもそも「安芸」という国の名前からして、「阿岐あき(=上ぎ)」、つまり「周辺よりも高い土地。高所」を意味している。実際、太田川の河口一帯はすぐ近くまで山が迫ってきており、平地も極端に少なかったから、そこにいるだけでも息 苦しさを感じたはずである。

 そこでこの際、新しく築く城の周辺の地名を改めよう、それには家運長久の願いを込めたいと考えたようだ。毛利氏はもともと、鎌倉幕府の政所まんどころ初代別当の任にあった大江広元おおえひろもと末裔まつえい。代々の当主が、「元」と「広」という文字をいみなにつかっていたのもそのためである。

 また、「末広」「広大」といった縁起のいい言葉もある。そこで、「広」の字を使うことに決め、もともとは島であったこと、さらに城の土木工事をおこなう城普請しろぶしん案内を務めた普請奉行・福島元長の苗字とも重なる「島」という文字と合わせ、「広島」と命名したというのが一般的な説である。

 広島城の築城は1589年4月から始まり、10年後の1599年に完成している。

 関ヶ原の合戦が東軍の勝利に終わり、西軍の総大将・毛利輝元は本来ならお家取りつぶしに処されてもおかしくなかった。結局、輝元の領土は周防すおう長門ながとの2カ国(長州藩)に縮小され、それまでの140万石から39万9千石に大幅な減封となる。

 そのあと、江戸に幕府ができると、この地に福島正則が封じられてきた。しかし、その福島は、1619年の台風でひどく損傷した広島城を、将軍家への断わりなしに改修したことをとがめられ、信濃国川中島かわなかじま改易かいえきとなる。

>>10/11号へ


岩中祥史(いわなか よしふみ)
 1950年11月26日生まれ。愛知県立明和高校から東京大学文学部に進み、卒業後は出版社に勤務。1984年より出版プロデユーサーとして活動するとともに執筆活動も。地域の風土と人々の気質との関係をテーマに、『名古屋学』『博多学』『札幌学』『鹿児島学』『新 不思議の国の信州人』『新 出身県でわかる人の性格』『名古屋の品格』『城下町の人間学』など著書多数。2011年の上梓した『広島学』はご当地広島の人たちをも驚かせる内容で、ベストセラーになった。


pagetop