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2018/6/28

追悼 谷川和穂元衆院議員 東広島市発展の礎築く

広島大移転や新幹線東広島駅新設に尽力

 自民党の元衆院議員で防衛庁長官や法相を務め、東広島市発展の礎を築いた、東広島市志和町出身の谷川和穂氏が6月8日、死去した。87歳だった。生前、谷川さんと親交の深かった4人に、谷川さんとの思いを語ってもらった(順不同)。※お別れの会は、7月21日午後1時から東広島さいきフォレストホールで開かれる。実行委員長は高村正彦自民党副総裁。午後1時30分から献花ができる。

プロフィル

1930
 賀茂郡西志和村(現東広島市)生まれ

1956
 慶大大学院政治学研究科修了

1958
 亡くなった父の地盤を引き継ぎ衆院選初当選(以後、3度の落選を経験したが、2000年の衆院選まで計12回の当選を果たす)

1966年8月〜67年11月
 文部政務次官を務める

1982年11月〜83年12月
 第1次中曽根内閣で初入閣。防衛庁長官を務める

1989年6月〜89年8月
 宇野内閣で法務大臣を務める

1996
 永年在職議員で衆議院から表彰

1991
 衆院選比例中国ブロックで立候補、11回目の当選

2000
 勲一等旭日大綬章受章

2003
 党の73歳定年制に伴い衆院選に立候補せず引退

2007
 東広島市名誉市民に選出

  • ▲防衛庁長官着任式での閲兵(防衛庁本館前、1982年)

  • ▲法務大臣として答弁に立つ谷川さん(1989年)

  • ▲ロンドンサミット会場で撮影(1991年)


  • ▲10度目の当選を果たし喜ぶ谷川さん(1993年)

  • ▲東広島市名誉市民の顕彰式であいさつする谷川さん(2007年8月)


先見の明を持った政策政治家

谷川さんの私設秘書を務めた県議
下原康充さん(67)

 先見の明を持ち現在の東広島市の下地を作った政治家と言っても過言ではない。

 功績の一つは、JR山陽新幹線東広島駅の新設に尽力されたことだ。山陽新幹線は1975年に開通したが、新幹線のルートを決める際に、西条地区ではトンネルではなく、地上を通してほしいと、当時の運輸省関係者に働きかけられた、という。つまり、広島大の統合移転を見据え、将来、東広島には駅が必要になるということを見越しておられた。

 その広島大の統合移転も先生の功績。66年に文部政務次官に就任されると、県全体の発展のためには、ひょうたん型経済圏からの脱却が不可欠、と当時の文相に説得したことが実現のきっかけになったと聞く。

 3度の落選を経験されたから、選挙には弱いとやゆされた。選挙には〈鞄(資金)〉がつきものだが、政策論争を好んだクリーンな人で、「政治家は金を儲けるものではない」が谷川先生の口癖だったからね。当然、先生の選挙は、誹謗中傷合戦が常態化していた激戦の旧広島2区で、「卑怯な手は使いたくない」と、ひたすら有権者にお願いして回る正面突破の戦いだった。今振り返ると、先生の性格も選挙戦に少なからず影響を及ぼした、と思っている。ただ、選挙戦で見せた先生の誇りは、私が先生を支持する動機付けにもなっていた。


小選挙区制度導入に尽力

谷川さんと同郷の元東広島市議
下村昭治さん(76)

 谷川先生との思い出で印象に残っているのは、1986年の山陽新幹線東広島駅起工式。当時、先生は落選中の身。式では先生が座るべき椅子が用意されていなかった。よほど悔しかったのでしょう。志和町に帰られた後、支持者の前で「僕には椅子がなかったんだよ」と人目もはばからず涙されたことを昨日のことのように思い出す。

 そのことがきっかけになって、「谷川先生を絶対に落としてはいかん」と、若い人たちが中心になって青年部を作ることになっ た。青年部で勉強会や研修会を重ねながら、先生を支えた。お陰で、その後、先生が落選されることはなかった。

 防衛庁長官時代には、当時のソ連領空で起きた大韓航空機撃墜事件(1983年)で、毅然として対応されるなど、多大な功績を残されたにもかかわらず、偉ぶった態度を取ることは絶対になかった人。だから多くの人が先生に付いていったのだと思う。

 「政清人和」。先生の好きな言葉の一つで、金権政治の流れを変えたい、と英国の選挙制度を参考にしながら、小選挙区制度の導入にも尽力もされた。「僕が関わったことだから責任がある」と、名前で戦う小選挙区での出馬を断念し、比例中国ブロックに転身した生きざまは見事としか言いようがなかった。


素朴な人柄ゆえの法相就任

親子2代で谷川さんを支えた元東広島市長
蔵田義雄さん(67)

 県議だった父(一二三・故人)が13年間にわたって先生の後援会事務局長を務め、私も党青年部の一人として先生を支えてきた。途中、袂を分かつ時期もあったが、私の〈心の本籍〉は、常に谷川先生だと思っていた。

 先生の魅力は、素朴なところ。確か溝手顕正参院議員の選挙のときだったと思うが、選挙事務所にこられた谷川先生に、コンビニで買ってきた、ラップに包んだおにぎりを差し出したら、「どうやって開けるの。僕にはよく分からん」と。その茶目っ気を持ち合わせた庶民的な素直さと、もう一つ他人の悪口を絶対に言わなかったところが、多くの人に愛された理由でしょう。

 1989年、宇野内閣で法相を務められたが、その人柄ゆえの就任だったような気がする。先生は権謀術数を弄する人ではなく、法相は自らが行動して取りに行ったポストではなかった。「死刑執行も絡む法相は、敵を作らない、純朴な谷川君に任せたらどうだ」と先生に白羽の矢が立った。

 私が市長のとき、先生を名誉市民に選んだが、旧2区から初の法相だったことと、讃岐照夫元市長(故人)が口癖のように語っていた、「谷川先生には、東広島のために、いつもお世話になっていた」との言葉が決め手になった。それだけ、東広島の発展に貢献された人だったということだ。


温厚で正直だった政治家

谷川さんの女性後援会(あかね会)の副会長を務めた
高橋繁子さん(87)

 とにかく温厚で正直。決して世渡り上手とはいえず、政治家らしからぬ人だった。女性から見ると、もう少しずる賢く立ち居振る舞いをしたらいいのに、と思うこともあったけど、先生の性分だからね。でも、それが先生を支援する大きな理由になっていた。

 今でも悔やむのが、現職の閣僚(防衛庁長官)でありながら落選されたときの選挙戦(1983年12月)。「現職の大臣が落ちるわけがない」。安心感が選挙事務所を支配していた。先生は閣僚だから地元に帰ってくることがままならなかった。「留守を預かる私たちが浮かれていたから、先生を落としたんだ」と、泣きに泣いた。選挙に油断は禁物。ましてや旧広島2区は全国での有数の激戦区だったでしょう。良い戒めになりました。

 先生は、身だしなみにもわりと無頓着で、よれよれの服を着ていても、まったく意に介さず。ただ、女性から見ると気になるところでした。それで、女性会でお金を出しあって、スーツからネクタイ、シャツ、靴と一そろえして先生に贈ったことがありました。その服で国会に登壇した〈カッコ良い〉先生に、女性議員も目を見張ったとか。

 先生に会ったのは2年前が最後。いつもの満面の笑みで「やぁ、元気」と。その笑顔は一生忘れることがないでしょう。


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