追悼 元東広島市長 讃岐照夫さん

身を律し、誠実に歩んだ『頑固親父』

 2代目の東広島市長として、昭和53年から平成10年まで5期20年、市のかじ取り役を務めた讃岐照夫氏が7月7日、肺炎のため死去した。95歳の大往生だった。田園都市を学園都市に成長させた讃岐氏の功績と人柄の一端を振り返る。※プレスネット2006年発行の「まちには色んな『BOSS』がいる」から再編集。(日川)

 県庁時代からさかのぼれば60年間地方行政の発展に貢献した。「百術は一誠にしかず」を座右の銘とし、この一点だけをみつめて汗を流した人である。

 西条農学校を卒業後、県庁入り。県職員時代には、戦後の広島復興に向けての大きなプロジェクトに次々と携わった。土師ダムや日本鋼管福山製鉄所の建設、海田湾の埋め立て、広島市・福島町の区画整理事業…。困難な地元との交渉に奔走、それぞれの難題を鮮やかにまとめた。その手腕を買われて、昭和53年、県出納長から東広島市長選に立候補、三つどもえ戦を制して2代目の市長に就任した。


▲無投票で3度目の当選を果たし、ダルマに目を入れる讃岐氏
(昭和61年)

 就任すると、県庁時代に培った人脈と行政経験をフルに生かして、国・県事業の補助金を取り込み、1期目からまちづくりの先頭に立った。行政手腕には本人も自負があった。就任後、まず力を注いだのが、太田川からの県用水の導入。自己水源の乏しい東広島市では、水不足の解消は不可欠だった。そして、昭和57年、県用水からの通水を実現させると、重厚大型の基盤整備を次々と推し進めた。

 新幹線東広島駅の開業や工業・研究団地・幹線道路の整備、広島大統合移転の完了、国税庁醸造研究所・JICAの誘致など、短期間で学園都市の骨格をつくりあげた。市民生活と直結する下水道・火葬場の整備や、賀茂広域行政組合を設立してゴミ・し尿問題を解決したことも大きな業績だ。


▲広島大学東広島地区開校式典であいさつする讃岐氏

 ただ、文字にすると数行で片付けられるが、どの事業も曲折があったことは、想像に難くない。そんなとき、心のよりどころにしていたのが冒頭の座右の銘。 「何事をするにも、心と誠を持って人と接すれば必ず道は開ける。県庁時代に学んだことですが、交渉ごとに駆け引きや小細工は要らんのです。真正面から誠心誠意尽くせば、少々強引でも直球勝負でいい。一度決めたら、やり抜くという信念。だから、どんなに計画が前に進まなくても、途中でやめようなんてことは一度も考えなかった」と語っていたことが思い出される。

 誠実で、一途なまでに頑固。負けず嫌い。讃岐さんと親交の深かった人たちの言葉から浮かび上がる、太い人脈を生かしての行動力と、素早い決断力、仕事への情熱。これら「讃岐流のバランス感覚」が、市長職を20年務め、短期間で数多くの事業をまとめた要因だろう。


▲山陽新幹線東広島駅開業式典のテープカット。中央が讃岐氏
(昭和63年)

 一方で、讃岐氏を語る上で忘れてはならないのは、20年間、事故やスキャンダルとなるような大きな失点がなかったことである。金銭にまつわる政治家の不祥事が後を絶たない中で、とりわけ権力の集中する市長職にあってトップであり続けたのは、厳しく身を律していたからだ。どんな親しい相手でも、利害が絡めば一線を画していた。自らに厳しく行動してきたからこそ、職員も一枚岩となって事業に取り組むことができたのだろう。

 讃岐氏が市長に就任した当時、東広島市の人口は7万人あまりの純農村地域だった。あれから37年。人口は約3倍に伸び、広島中央地域のリーダー的都市にもなった。「ぼくが取り組んできたことは間違っていなかったな。少しは誇ってもいいでしょう」。市長を退任後、記者に語っていた言葉である。数々の修羅場をくぐり抜けた生真面目な人の言葉だけに、リアリティーがあった。政治家は成した仕事でのみ評価されるとしたら、決して忘れてはならない人である。


▲市民らとジョギングで汗を流す。左は故・財満次平次氏
(昭和50年代)

さぬき・てるお 大正9年10月29日生まれ。昭和14年に広島県に入庁。出納長などを経て、53年に東広島市長選に出馬し初当選。以後、5期連続当選を果たし、賀茂学園都市・広島中央テクノポリス建設、広島大学統合移転などに尽力。平成10年に退任した。11年、勲三等瑞宝章受賞。19年、名誉市民の称号を受ける。

ザ・ウィークリー・プレスネット 2016/7/16

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