
一.宝物の分散
1931年、九・一八事変(満州事変)が勃発し、やがて戦火が北京に及ぶ恐れが出てきたため、故宮博物院は収蔵する文物が難を受けることをおそれて、移動可能な重要文物を南方に移動させること(南遷)を決定した。とりあえず一旦は上海まで運び、早急に南京に保管庫を造って故宮博物院南京分院とする計画で、ただちに文物の選別にかかり、これを総計一万三千四百二十七個の木箱と六十四個の包みに梱包して、1933年2月から5月にかけて五回に分けて搬出した。
搬送ルートは、日本軍の襲撃をおそれて天津を避け、平漢線で鄭州へ、隴海線で徐州へ、更に津甫線で上海へ、と定められた。鉄の有蓋車は一輌ごとに屋根の四隅に機関銃が据えられ、車内には武装兵が同乗して警備にあたった。文物輸送列車は特急以外のすべての列車に優先して運行され、線路の両側方を騎馬隊が伴走した。それでもなお、徐州を過ぎたところで千人余の土匪の一団に襲われたが、幸い被害は免れた。上海に到着して、まずは天主堂街の旧仁済病院跡と四川路業広公司の倉庫に運びこみ、故宮博物院上海事務所を開設した。
1936年8月南京の保管倉庫が落成し、翌年の1月にかけ5口に分けて全文物を南京に移送して漸く南遷を完了した。
息つく暇もなく、1937年七・七事変(蘆溝橋事件)が発生、南京分院に保管する文物から更に貴重品を選び西に移すこと(西遷)になった。西遷のルートは南・中・北の三路し、各路を更に細分して水路・陸路・鉄路をおりまぜ、最終目的地もないまま、その年8月から輸送を開始した。文物は三路それぞれ巴県(重慶)・楽山・峨眉まで運ばれたが、戦火が全土に広がり安全な場所もなくたびたびの移動を余儀なくされた。
西遷の期間中幾度となく山河を越え風雨霜雪にさらされ戦火に追われて何度か事故にも遭遇しながら、幸い文物の損失を最小限にくいとめ漸く戦乱の時代を乗り切ることができた。1946年1月南京への送還(東帰)が始まった。各地に分散していた文物を3月には一旦重慶に集積、5月から11月にかけてすべてを南京に送り返して漸く長途の西遷が終結した。
1948年12月から翌年2月にかけて、国民党指導者は南京分院の重要文物20余万点を台湾に運び去り、南遷された文物のうち再び北京に返されたのは石鼓などごく一部に過ぎなかった。
二.台北故宮博物院の文物
南京から三度に分けて台湾に輸送された二千九百七十二箱の文物は、同時に台湾に運び込まれた八百五十二箱の中央博物院設立準備事務所の文物とともに、ひとまずは台中市の製糖工場の倉庫に移され、1955年「国立故宮中央博物院連合管理所」が正式に発足した。1957年、亜洲協会の賛助を得て倉庫に接して小型展示場が建設され初めて公開された。1961年、台湾行政院は台北市士林区外双渓に新しく博物館が完成された。当初この新館は、孫中山生誕百年を記念して中山博物館と名づけられ、同時に「国立故宮博物院臨時組織規定」が公布された。台中に保管された文物はすべて台北に移され、1965年11月台北故宮博物院が正式に開幕した。
収蔵されている文物は、当初南京から運ばれた書画・銅器・磁器・玉器・漆器・琺瑯・彫刻・文具・図書・文献・工芸品など二十三万八百六十三点と、中央博物院分併せて二十四万二千五百九十二点であったが、その後の整理で文献類二万余点が分類されて三十余万点となり、また寄贈・購入された文物も加わり、現在六十万点に達している。
三.北京故宮博物院の文物
近代、北京紫禁城から流出した文物は膨大な量に上ると思われるが、台湾に運ばれたものを除けば、なお大部分の重要文物が北京故宮博物院に保管されている。
溥儀が紫禁城を離れた際に持ち出された文物の大半・二千余点はその後接収され、香港などの資産家の手に渡っていた品も順次買い戻されている。また内外の収蔵家から寄贈される貴重文物も少なくない。
こうして、現在北京故宮博物院に収蔵されている文物は全部で百万点近くに達し、そのうちわけは、書画十万余点、刻字五万余点、金属器三万余点、塑像二万余点、陶磁器三十五万余点、織物刺繍十三万余点、玉石器・漆器・琺瑯器・ガラス器・文具・彫刻・工芸品など十四万余点、宝石・装身具・武器・楽器・時計・天文儀・生活用品・宮廷器物九万余点などとなっている。