豆知識

「百寿図」の由来

 「百寿図」は広西永福県の「寿字岩」にその源流を見ることができる。「寿字岩」(古称「夫子岩」)があるのは永寧州古城から東へ2㎞ほど郊外に出た所で、東江の川岸、桂融国道(桂林-融安)沿い対岸の山中である。山はさほど高くないが、奇岩怪石が屹立し山肌は非常に峻険である。山上には岩を破って鉄のような古木が重なり生気に満ち満ちている。この画のような翠滴る山の西北斜面に石洞がぽっかり口を開き、あたりを籐葛が覆いつくしている。「寿字岩」はここにあった。ふもとから石段を拾いながら登ってゆくと、山道の傍では金木犀が客を迎え、竹の緑が風情を添える。洞の高さ15m、幅10m、奥行12mもあろう。洞の中は夏なおひやりとし、水の落ちる岩肌には苔が密生し、鍾乳石が林立する。

 洞内の岩壁には彫刻が多く、故事・伝記・詩文・古語・仏像・龍画など、宋代から現代まで各時代の筆跡が刻まれている。有名な元代の書家趙孟頫の筆による「寧寿」の二字もあれば、明末三大功臣の一人・兪大猷が自ら記した隆慶五(1571)年の韋銀豹率いる農民蜂起の鎮圧の記録もある。数ある石彫の中でも特に目を引くのは、南宋紹興己丑(1229)年に県知事・史渭が書いた「寿」の字で、字の高さ177㎝、幅145㎝で岩から垂れ下がる形に刻まれ、筆致は力強く、彫刻もまた精巧なものである。伝説によれば、昔この岩の下に廖扶という人が居を構えていた。岩の左手には辰砂(硫化第二水銀の赤い鉱石)の井戸があり、家族中でこの水を飲み、みな百歳を越えるまで生き、廖扶自身は百五十歳まで生きて仙人となり、雲に乗って飛び去ったという。県知事・史渭はこの伝説に感動して、早速筆をとりこの大きな寿の字を書き、その墨の上に更に小さな寿の字を百個嵌めこんだ。これには長寿百歳の願いがこめられている。この小さい百個の寿は百字百様、楷・草・隷・篆・甲骨・鐘鼎等のあらゆる書体で記され、それぞれの小字の横に書体の出典を明記している。この大小の寿の字が渾然一体となって絶妙の平衡を保ち、誰言うとなく「百寿図」と呼ばれるようになった。寿城の地名も無論この「百寿図」に由来する。

 この八百年来、「百寿図」は非常に重宝され世に広められてきた。古代は交通の便が極めて悪かったが、それでも歴代の高官・詩人墨客が競ってこの山に鑑賞に訪れた。貴族文人たちはこぞって一幅の百寿図を座敷中央の壁に懸け、それを見に来る客が堂に満ちた。南宋以後この拓本を作る工房が各地で栄えた。『永寧州志』には次のように記されている。

 「名士たちはこの朱拓をとるため重装備を整え、鎮江の急流・強風をものともせず、危険をも顧みず云云……」

 民国年間、蒋介石五十歳の誕生日を迎えるにあたり、広西省主席・黄旭が人に命じてこの「百寿図」の拓本を採らせ、立派に表装した上で蒋介石に献上した。その後「百寿図」の拓本は政府の進物としてイギリスのエリザベス女王の誕生祝にも贈り物にされたという。「百寿図」は日本をはじめアジア・欧州・米国でも珍重され、海外に住む中国人はこれを民族文化の象徴とみなし、家族代々の家宝としている。

 解放後この百寿岩は歴史遺跡に指定されたが、十年の動乱の被害を受け、岩には人がよじ登って割れ目が生じ、千年の樹齢を誇り傘の形に茂っていた榕樹(ガジュマル)も無惨に切り倒され、鍾乳石に刻まれた観世音像は革命により頭と腕が刎ねられ、あたり一面にたれさがり或いははえていた鍾乳石は「古きを破る」というかけ声で木端微塵となり、その他の多くの石彫・石碑・壁彫も完膚なきまでに破壊された。寿城の人民たちは「百寿図」を破壊から守るため、悪臭芬々たる豚の糞で岩を隠し、一部無知の徒輩の狼籍を巧妙に制止して、無傷のまま保存することに成功した。文化大革命が去った後この古い洞窟・霊岩は再び脚光を浴びることになった。寿城の人民は岩の汚れを洗い落とし、彫刻文字に朱墨をいれ、新しく山道を拓き、休憩所を設け、広く草木を植え、渓谷瀑布に清流を通した。寿字岩はもとどおりの姿を見せ、岩山の上の榕樹の株からは無数の新芽が天に向かって枝を伸ばし始めた。

 こうして八百年の歴史を超えて、文明の古今を超越した「百寿図」は永劫不滅の芸術の輝きを放っている。

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