
北京芸術博物館には康熙、乾隆、道光、宣統各帝の作品をはじめ西太后、成親王、恭親王、溥伒兄弟など多くの清朝皇族の親筆書画が収蔵されており、彼等の生活の一側面をうかがい知ることができる。
清朝では入関後積極的に漢文化を学習吸収することが提唱され、皇帝王侯も政務の相間に競って翰墨に親しんだ。特に皇子・王侯子弟は、書房(塾)に上がって学ぶことが義務づけられ、家庭には翰林(学位取得者)が派遣され、長老家族の薫陶を受け、また宮内秘蔵の歴史的作品に接する機会にも恵まれていた。このような環境が重なって歴代皇族はそれぞれ書画骨董、歌舞音曲、詩歌文芸に秀で、伝統を重んじる一大文化集団が形成された。今に伝わる中国文化は宮廷を中心に継承されたと言って過言でなく、彼らの芸術が「宮廷派」と呼ばれる所以がここにある。
皇族の書画作品が一般書画家による作品と較べて大きく異なるところは、伝統に極めて忠実であることのほか、作品に王家ならではの風格が漂っていることと、墨・印泥・紙などの使用材料が特に調査されたものが使われている。
注意すべき点は、高貴な地位の皇族の作とされる書画に代筆による作品が少なくないことである。例えば乾隆帝の作品では張照または銭維城が、西太后の作品では繆素筠が代筆したものであり、溥儀十六歳(一九二二年)の作として知られる「牡丹図」も本人親筆によるものではない。
清朝皇族の書道は時代によって三つに大別することができる。すなわち康熙代は董其昌に学び、乾隆代は趙孟頫に順じ、嘉慶以降は欧陽詢に倣った。
康熙帝は能筆家で、しばしば自らの筆による書画を臣下に賞賜している。彼が董其昌の書風を尊んだため当時の書家はいずれもこれに習い、書壇は董の気風に溢れていた。
乾隆帝の書は康熙帝と流れをやや異にするが、能書家であったことには変わりなく、各地の行宮には訪れた時に記した題字題詩の扁額が百点余も残されているほか、紫禁城旧蔵の書画の多くにも彼の墨跡が記されている。
成親王永瑆は乾隆帝の第十一子で、清朝歴代皇族の中でも傑出した書道家として知られ、一般に清代四大書家(翁同龢、劉墉、鉄保、成親王)の一人として名を連ねている。
嘉慶帝以後道光帝、宣統帝、恭親王溥偉などこの時代の皇族の書は総じて欧陽詢の流れを汲み、漆黒の墨による整った字体の楷書は非常に力強い。
特筆すべきは末代親王(恭親王)毓嶦で、篆隷楷行草のあらゆる書体を意のままにあやつり、まさに「現代の草聖」の名に愧じない。
絵画においても清朝皇族の作品は伝統国画の中心に位置づけることができる。乾隆帝五十一歳の作「樹石図」をはじめ、乾隆帝第六子永瑢や康熙帝の孫にあたる弘旿の山水画は時代を代表する作品として高く評価されている。かの西太后も墨梅、金魚、花卉、寿桃など多くの画作を残している。一家系に限って名を挙げれば、道光帝第五子淳親王奕
、その四子載瀛、更にその一子溥伒、五子溥僩(溥毅斎)、六子溥佺(溥松窓)、八子溥佐(溥庸斎)、また溥佐の子を見れば二子毓嵀、四子毓峋、七子毓岳、八子毓
、末女と毓崌、著名な画家は枚挙に遑がない。
現在にわかに脚光を浴びている画家として連経がいる。粛親王善耆の孫で川島芳子の甥にあたる。一九九一年中国共産党の江沢民総書記が年賀状に連経の画を配したことからも彼の実力のほどがしのばれる。
愛新覚羅姓を名乗る書画家は今や恐らく数百人から千人にも達しよう。歴代三百年にわたって後宮三千人とも言われた王家ともなれば、その血を引く者は数知れず、すべての系譜をたどることは不可能であり、愛新覚羅の名のみに頼ることは王朝の崩壊とも相俟ってやがては意味を持たなくなるかもしれない。日本ですら愛新覚羅を偽称する書道家が輩出していることも憂うべき現実である。