
辮髪は北方民族独特の風俗であるが、清朝の入関直後一六四五年八月に清朝統治者が布告を発し、漢族も含めて男性はすべて前部の頭髪を剃り辮髪を結うよう命令した。「これに従う者は我が朝民と見なし、躊躇する者は逆族と見なす」というもので、これはとりもなおさず、「頭を留めるには髪を留めず、髪を留めるには頭を留めず」ということであった。以来清代の中国人男子は一様に後頭部に一條の辮髪を垂らすことになり、この風習は二百余年にわたって持続された。
清朝末期に至り各地に革命の気風が興ると、進取の気性に富む人たちは競って辮髪を剪り、以て清朝への叛意を表した。民国が成立するに及んで、人民は続々辮髪を剪り平服を着るようになったが、退位したとはいえ清朝の皇室及び旗籍に属する人たちはなおもこの風習を守っていた。民国政府内務部は朝廷内務府に対し旗人の断髪を繰り返し勧告したほか、首都警察庁は毎日各王公の邸宅をまわって断髪を促し、甚だしきはこれを強制した。朝廷内務府ではこれに対抗し、さまざまな理屈をつけて断髪を阻止しようとし、遂には宮廷に入るに際して辮髪の有無を検査し、辮髪の無い者の出入りを禁止する措置をとった。その結果宮中に仕える旗人たちは生計を守るためには辮髪を剪ることができなかった。
ところが事態は意外な方向に発展した。やがて英語教師ジョンストンの影響を受けた溥儀が辮髪を不格好だと思うようになり、突如断髪に及んだのである。上が行えば下が倣う例にもれず、紫禁城内の辮髪は数日を経ずして姿を消した。しかしなお三人の教師と数人の内務府大臣だけ生涯辮髪を垂らしたままであった。