豆知識

清朝末期の皇権争い

 第二次阿片戦争爆発後一八六〇年八月、咸豊帝は承徳の離宮に逃れ、翌年八月二十二日ここで病死した。遺言を受けて、載淳が皇位を継承し、同時に載坦(怡親王)・端華(鄭親王)・粛順・景寿・穆蔭・匡源・杜翰・焦佑瀛の八人が大臣に任命され、六歳の幼帝載淳の政務を補佐することになった。

 一方、載淳の生母慈禧太后を中心とし、慈安太后をも含む勢力は大権が自分たちの手から遠くなることに危機感を抱き、先帝の遺骸を北京に移す機に乗じて、当時北京で外国勢力との交渉にあたっていた恭親王奕訢と結詫し、一八六一年十一月二日早朝、紫禁城養心殿で政変(辛酉政変)を起こした。これにより八大臣はすべて失脚し、奕訢はその功により議政王の地位についた。

 こうして政務の実権は垂簾聴政にあたる両太后の掌握するところとなったが、実質的には上奏書の閲覧、政務の採決等はすべて慈禧一人があやつることになった。政変後の奕訢は皇帝の叔父として内外の信望を集め、次第にその権力基盤を拡大して、いつら慈禧の存在すら無視するようになり、慈禧は遂に奕訢を排除する決心をした。

 一八六五年、翰林院編集・蔡寿祺が奕訢を収賄・職権乱用の罪で訴えたのを機に慈禧は奕訢を議政王から外し、更に一八八四年中仏戦争の失敗を機に、規範無視・情勢誤認の罪を着せて奕訢からあらゆる官職を剥奪し、遂に慈禧は絶対の統治権を手中にした。

 皇太后が垂簾聴政を行う唯一の理由は皇帝が幼く自ら朝政を司ることができないことにある。皇帝が十四歳に達した時、朝廷の慣例に従えば政務は皇帝が執ることになるが、慈禧はこれを無視し、一八七二年載淳が十七歳になって漸く慈禧は帰政に同意した。しかしすでに慈禧の勢力はあまりに大きく、皇帝親政とは名ばかりで、慈禧は何事につけても大政に口をはさみ、皇太后と皇帝の関係は親子でありながら互いに険悪になっていった。このような情況で一年半が推移し、載淳は病に倒れて一切の政務が再び慈禧の手に戻った。

 一八七四年暮載淳が病死し、慈禧は奕譞の子で四歳の載湉を皇位継承者に指名した。載湉は載淳の従弟であり、しかも慈禧の実妹の子である。権力の座を保持するため、この時慈禧は載湉を咸豊帝の継嗣に入籍させ、これにより自らは皇太后の座を確保し、載湉が幼帝であるため引き続き垂簾聴政の玉座に居座った。念が入っていることには、慈禧はこの時、もし載湉に皇子が生まれればただちにその皇子を載淳の継嗣とし皇位を継ぐことを宣布している。それにより、慈禧はその幼帝の太皇太后として更に垂簾聴政を継続することを企んだからである。

 載湉が長じ自ら親政を執る段になって、再び載淳の場合と同様の確執が生じた。

 日中の甲午戦争で惨敗を喫し愛国主義が台頭する中で、康有為をはじめとする維新派が載湉に改革を呼びかけ、載湉も自らの傀儡的地位を脱却するため、一八九八年六月十一日を皮切りに、軍事・経済・文教・政治などあらゆる分野にわたって数十項に及ぶ法改正の詔書が陸続と発布された。権力の座に固執する慈禧は万策を弄してこれに対抗し、ついに一八九八年十月武力政変に及んだ。世に言う戊戌政変である。

 光緒帝載湉は囚われの身となって南海瀛台に幽閉され、慈禧は「訓政」と称してなおも政権を継続掌握した。刻々進展する世界情勢の中で権力争いに明け暮れるうち、清朝の国力は急速に衰退の道を辿っていった。

 一九〇八年、幽閉されていた載湉が病死した。自らも死に目前にしていた慈禧はなおも権力の座を求め、二歳の溥儀を載湉の継嗣とし、一八七四年の宣布により載淳の継嗣として皇位を継がせたが、載湉死去の翌日慈禧自らも世を去って、漸く大権争いの幕が閉じられた。

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