豆知識

清朝皇族の称号

 清朝皇族に関する記述の中でもっとも辟易させられる問題の一つは、同一人物に対する称号の複雑さによる混乱である。

 「孝欽慈禧端佑康頤昭豫庄誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后」祈祷文か詩の一部とも思われそうなこの二十五文字は、ある時は葉赫那拉氏と呼ばれ、またある時は西太后と呼ばれる女性の死後位牌に記された正式称号である。この称号は、西太后が生前得た徽号と尊号、及び死後贈られた謚号で構成され、時に臨みこの二十五文字の一部を用いるため、西太后を表す称号は極めて複雑な展開を見せる結果となった。

 尊号は身分の低い者から上位の者に贈られる称号である。『漢書』には「皇帝尊号」の記載があり、「皇帝」を尊号として指定している。後に、新帝が即位した時、先帝を「太上皇」、前皇后を「皇太后」、前皇太后を「太皇太后」と称するようになった。唐代にはこれらの尊号の前に更に称号を加え、例えば唐の中宗は「應天神龍皇帝」と称した。これもまた尊号と言えよう。後唐に入ると更に徽号ともいうべき称号が追加された。後唐の明宗に奉った尊号・徽号は「聖明神武広運法天文徳恭孝皇帝」である。

 帝王・皇族・高級官吏等が死んだ後、その生前の業績をたたえて贈られる追号が謚号である。清朝では中原地域歴代宮廷の制度を引用して尊号・徽号・謚号の規定を設けた。入関後の清朝では帝位に即くと「皇帝」の尊号が贈られ、以後帝位にある限りほかの称号は加えられず、死後に謚号が附加された。新帝が即位すると前皇后と新帝の生母が皇太后を称し、前皇太后が太皇太后を称する。ほかに国家の慶事があればその都度、皇太后には尊号に加えて美辞麗句(普通は二文字)の徽号が送られる。死後は生前の尊号・徽号に更に数字の謚号が附加される。後代になって皇帝も若干の徽号を附加するようになった。

 太后に尊号・徽号が贈られると盛大・荘厳な儀式がとり行われ、西太后に及んでその式典は華美を極めた。称号の一例として特に冒頭に揚げた西太后の称号の経緯を詳述する。

 西太后はもともと懿貴人の身分で宮廷に入った。彼女が尊号を得たのは咸豊十一(1816)年七月。咸豊帝が死亡し、その子載淳が皇帝の帝位を継ぎ、二十七才で慈安皇后と共に皇太后の尊号を贈られたことに始まる。垂簾聴政にあたり同治元(1862)年に慈禧の徽号を贈られた。その後同冶十一(1872)年十月、載淳の大婚により「端佑」二字徽号が加えられた。翌年二月載淳が自ら政を執ることになって更に「康」の二字が加えられた。同治十三(1874)年十一月十五日、同治帝から次のようなお言葉が出された。「私は今年天より偉大な喜びを賜わった。両太后の私に対するご加護は至れり尽くせりで、その慈悲を仰ぎ、身体を折り、頭を俯す。今後内外各役所よりの上奏文は両太后が代読し裁定を下される。私は喜びと感謝に耐えない。」これにより両太后には新たに二字の徽号が贈られることになった。しかしその二十日後に載淳が死亡したためこの決定は実行されなかった。

 光緒二(1876)年七月に新しい皇帝が即位し、両太后が垂簾聴政を継続することとなり、前回の分を合わせて両太后に四字の徽号が贈られることになった。慈禧の四字は「昭豫症誠」である。光緒十五(1889)年二月、光緒帝の大婚と帰政(政を皇帝に返すこと)の発表を機に「寿恭」の二字が贈られ、三月には光緒帝の執政で更に「欽献」の二字が加えられた。光緒二十(1894)年八月、慈禧の六十歳の誕生日を祝って「崇熙」の二字が加わった。光緒三十四(1908)年十月光緒帝が病死、溥儀が帝位を継いで慈禧は太皇太后の尊号が贈られ、やがて死亡、光緒三十四年十月二十六日、それまで受けた十六字の徽号に加えて更に、慣例により最初に「孝欽」、最後に「配天興聖顕皇后」の謚号がつけられ、こうして冒頭に掲げた称号全部が完成された。

 清朝各代の皇后(太后の謚号は皇后となる)の最終称号は大体十九字で、慈安太后は十七字であったが、独り慈禧大后のみは二十五字と、慈禧の生前の権力がいかに強大であったかを物語っている。

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