
| 順位 | 称号 | 人数 | 順位 | 称号 | 人数 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 皇后 | 1人 | 5 | 嬪 | 6人まで | |
| 2 | 皇貴妃 | 1人 | 6 | 貴人 | 制限なし | |
| 3 | 貴妃 | 2人まで | 7 | 常在 | 制限なし | |
| 4 | 妃 | 4人まで | 8 | 答應 | 制限なし |
清朝の歴史に大きくかかわった二人の太后がいた。孝荘と孝欽である。
孝荘は清朝太宗皇太極の妃で、モンゴル族、姓を博爾済吉特氏という。その実子(皇太極第九子)福臨が帝位(順治帝)について皇太后となり、更に康煕帝の太皇太后の座にあった。一六八七年七十五歳で死亡、孝荘文皇后の名で知られる。
孝欽は文宗咸豊帝の妃で、満族、姓を葉赫那拉氏という。その実子載淳が帝位(同治帝)についてについて皇太后となり、更に光緒帝の太皇太后の座にあった。一九〇八年七十四歳で死亡、孝欽顕皇后、また慈禧太后、西太后の名で知られる。
この二太后の経歴や身分・寿命などは酷似しており、いぞれも数十年にわたって朝政の実権を掌握していた。孝荘は皇太后の座につくやただちに瀋陽から北京に遷都し、紫禁城を占領して明朝を倒し、更に太皇太后として政務を掌り、この間に初期清朝政権に磐石の基礎を築いた。孝欽も同様皇太后・太皇太后として永年権力を恣にしたが、贅に溺れ自らの地位に固執するうちに、清朝政権は急速に滅亡の淵に沈んでいった。
清朝はまさに女性によって興り、女性によって滅んだと言っても過言ではない。