
清朝は満族の貴族によって建立された中国最後の封建王朝で、国内のさまざまな民族文化が融合した王朝であった。清朝の皇族には多くの禁令が課せられ、異民族文化の混入を阻止し満族古来の風俗習慣を維持しようとする試みが図られ、とりわけ漢族との結婚は厳しく禁止されていたが、複合民族文化共同体形成への潮流は妨げられるべくもなく、満族固有の風習はいつしか衰退の道をたどり、満族の漢化傾向は日ました加速されていった。そうした中で、清朝歴代十二人の皇帝の血も例外ではなく、入関以前の太祖、太宗を除けば誰一人として純粋な満族の血統を継承する者はなかった。多かれ少かれ蒙古族、漢族(八旗漢軍)の血を受け入れていったのである。
清朝では、蒙古族の上層貴族を籠絡しようという民族政策をとり、皇帝の娘を蒙古王公に嫁がせ、また皇帝自身が蒙古貴族の娘を后妃に迎えるのは決して珍しいことではなかった。太宗皇太極の皇后孝端文・博爾済吉特氏は蒙古科爾沁貝勒(貝勒は貴族の階級名)の娘であり、その姪もまた太宗に嫁がせて荘妃となった。この荘妃こそ順治帝の母親で、母は子を以って貴しとなすとか、後に皇太后につき、没後は孝荘文皇后の尊称が贈られた。以後九人の皇帝はいずれも順治帝の子孫で蒙古の血筋を引く者である。清朝皇帝の正位皇后になった蒙古族女性には上記博爾済吉特氏のほかにも同治帝の皇后孝哲毅・阿魯特氏など幾人かいるが、彼女たちには子が生まれなかったり、生まれても夭逝するなどして、皇帝の生母となった者は一人もいなかった。
康熙帝の生母孝康章皇后は本来順治帝の妃にすぎなかったが、康熙帝の即位後は慈和皇太后となった。孝康皇后の旧姓は佟と称し、固山額真(額真は蒙古語の長官)図頼の娘で、八旗漢軍の家柄である。後に皇帝の生母となったため佟佳氏と改姓させられ、満州旗人に編入されて、后妃の旗属改編のさきがけとなった。したがって康熙帝は満・蒙・漢の三種の血を引く皇帝ということになる。康熙帝以降の八人の皇帝はすべて康熙帝後裔であるから、同じく満・蒙・漢の血が流れている。もちろん、生母の種族が同じでなければそれに応じて血統の割合も変わってくる。康熙帝以降雍正帝、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝、咸豊帝、同治帝と、いずれも父の死後子が帝位を継承しており、康熙帝の血が一脈伝えられている。嘉慶帝を除いた五人の皇帝の生母はいずれも満族で、蒙古族の血統は加えられていない。嘉慶帝の生母は八旗漢軍の出身であった。こうして清朝後代に至るにつれて皇帝に流れる蒙古の血はますます淡くなり、満・漢の血が互いに競いながら、それでも傾向としては満族の割合が漢族より大きくなっていった。
雍正帝生母・孝恭仁皇后烏雅氏、乾隆帝生母・孝聖憲皇后鈕祜禄氏、道光帝生母・孝淑睿皇后喜塔臘氏、咸豊帝生母・孝全成皇后鈕祜禄氏、同治帝生母・孝欽顕皇后葉赫那拉氏(慈禧)はいずれも満州旗人の出身で、彼女達の子供が皇帝を継ぐたびに、皇帝の血の中で満族の占める割合が増加していった。
嘉慶帝生母・孝儀純皇后・漢軍魏氏は貴人として乾隆帝に仕え、やがて皇貴妃となったが、乾隆四十年に死去した。乾隆帝は帝位を嘉慶帝に譲るにあたりその生母に孝儀皇后の称号を贈り、また康熙帝の生母の旗族改編の例にならって、姓を魏佳氏に改め、満州旗人に編入した。この嘉慶帝が即位したことにより、また一度清朝皇帝に流れる漢族の血の割合が増加した。
同治帝は十三年在位したがあとつぎが無く、慈禧太后の命により道光帝の孫載湉(醇親王奕譞の子)を咸豊帝の子として入籍させ、光緒帝として皇統を継承させた。光緒帝もまた在位三十四年にして子が無く、再び慈禧太后の命を奉じて道光帝の曾孫であり、醇親王載灃の子である溥儀を同治帝の子とし、併せて光緒帝の子として入籍させ、帝位を継がせて宣統帝とした。光緒帝の生母は慈禧太后の妹・葉赫那拉氏であり、宣統帝の生母は栄禄の娘・蘇完瓜爾佳氏で共に満州旗人である。したがって最後二人の皇帝もいずれも満族の色合いの濃い血統の皇帝であった。
| 満 | 漢 | 蒙 | |
|---|---|---|---|
| 太祖努爾哈赤 | 100 | 0 | 0 |
| 太宗皇太極 | 100 | 0 | 0 |
| 順治帝福臨 | 50 | 0 | 50 |
| 康熙帝玄燁 | 25 | 50 | 25 |
| 雍正帝胤禛 | 62.5 | 25 | 12.5 |
| 乾隆帝弘暦 | 81.5 | 12.5 | 6.25 |
| 嘉慶帝顒琰 | 40.6 | 56.3 | 3.1 |
| 道光帝旻寧 | 70.3 | 28.1 | 1.6 |
| 咸豊帝奕詝 | 85.2 | 14 | 0.8 |
| 同治帝載淳 | 92.6 | 7 | 0.4 |
| 光緒帝載湉 | 92.6 | 7 | 0.4 |
| 宣統帝溥儀 | 96.3 | 3.5 | 0.2 |