豆知識

清朝宮廷史

一、清王朝の生立ちと太祖・努爾哈赤(在位1616~1626)

 「清」は、女真族の愛新覚羅努爾哈赤(ヌルハチ)を始祖とし、1616年から1911年まで296年にわたった中国最後の王朝である。

 女真族は、シベリアのエニセイ川東方から満州にかけて広く分布するアジア系人種・通古斯(ツングース)に属する一種族・満族で、先秦時代(紀元前2世紀以前)の記録にある粛慎(しゅくしん)、後漢時代(1世紀初め~3世紀初め)に挹婁(ゆうろう)、元魏時代(5世紀頃)に勿吉(ぶつきつ)、隋唐時代(6世紀後半~10世紀初め)に靺鞨(まつかつ)と呼ばれたが、隋の開皇(6世紀末)の時六部に分かれ、そのうちの一部・黒水部が女真と呼ばれる。五代(10世紀前半)の頃をはじめて女真と称したが、11世紀半ば、契丹(きったん)の王・宗真の諱(いみな)を避けて女直とし、また女質とも呼ばれる。12世紀初め、遼(契丹族が立てた王朝)の支配を避けて松花江流域に住んでいた一部の女真族(生女真と呼ばれる)の長・完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)が金朝を築いて遼及び北宋(10世紀の初め~12世紀の初め)を滅し、中原地域をも制圧して女真族の最盛期を迎えたが、100年余りにして元(モンゴル族が立てた王朝)に滅ぼされた。

 元代末期(14世紀初め)女真族は建州、海西、野人の部族に分かれ、各部族間で覇を争って長期にわたり激しい戦闘が続いた。明代の永楽年間(15世紀初め)、明朝は各部族を分断して懐柔するため族長たちに官職を与えた。建州女真部の長・猛哥帖木児(モングチムール)は元代末期には万戸(地方で軍事を掌る役職)の役にあったが、永楽年間には建州衛都指揮使にとりたてられ、以後その家系は代々その官職についた。猛哥帖木児の没後、その子・董山(とうざん)と凡察(ぼんさつ)が赫図阿拉(ホトアラ、遼寧省東部)で父の職を継いだが、互いに不和となり、明朝は二人をそれぞれ建州左衛・建州右衛の長に分けた。

 努爾哈赤は建州左衛都指揮使で猛哥帖木児の四代目後裔・学昌安(覚常安)の孫として1559年費阿拉(ヘイアラ)城で生まれた。父は学昌安の第四子塔克世(タクシ)、母は建州右衛都指揮使・王杲(おうこう)の長女・喜塔拉(シタラ)氏額穆斉(オムジ)である。当時王杲が勢力を振るい、学昌安はその配下にあった。1574年、明朝の遼東総兵官・李成梁が建州に進攻して王杲のとりでを占領し、努爾哈赤とその弟・舒爾哈斉(シュルハチ)は捕らえられて李成梁の童僕となった。三年後釈放された努爾哈赤は建州に帰って、1577年佟佳(とうか)氏と結婚。翌年長子禇英(ちょえい)をもうけた。

 1583年2月、李成梁は再び派兵して王杲を攻め、この混乱の中で努爾哈赤の祖父・学昌安と父・塔克世も明軍により殺された。明朝は努爾哈赤のもとに使者を出して遺憾の意を表し、馬三十頭などを贈るとともに龍虎将軍に封じ、建州左衛都指揮使にとりたてた。その年5月、努爾哈赤は祖父の残した軍勢で女真族統一の戦いに着手し、女真各部を次々と配下に収めて勢力を拡大していった。1587年には呼蘭哈達(コランハダ)南岡に宮城を建て、自ら女真国淑勒貝勒(貝勒は爵位名)と称して国政を定め建国の基礎を築いた。1603年には都を赫図阿拉に遷し、そして1616年、遂に自ら帝位について国号を金とし年号を天命と定めた。後の清王朝の建国である。

 1619年3月、努爾哈赤は金軍を率いて薩爾滸(サールホ)の地で明軍と対決し決定的な勝利を収めた。これにより金明関係は攻守一転し、以後金国の勢力範囲は急速に拡大していった。1625年、それまで転々と遷していた都を瀋陽に定め、更に国家としての体制を整えた。

 1626年1月、努爾哈赤は兵を率いて遼遠城に進攻したが、大敗を喫し、自らも重傷を負って、回復に至らないまま同年8月病没した。行年六十八歳、この時十四人の妻妾のうち二人も殉死した。

 9月、努爾哈赤の第八子・皇太極(ホンタイジ)が皇位を継承して即位し、翌年、年号を天聡と改めた。

二、太宗・皇太極(在位1627~1643)

 皇太極は1592年努爾哈赤の第八子として生を受け、1627年皇位についた。当初は皇太極は三大貝勒(努爾哈赤の第二子・代善、第五子・莽古爾泰、甥・阿敏)と対等の立場で共に国政を執ったが、即位後間もなく自らの皇権を強め、残酷かつ強引な手段で十年を経ずしてすべての大権を手中にした。

 1636年、時期到来と判断した皇太極は国号を大金から大清に改め、民族の呼称を女真から満洲に改めるとともに、年号を天聡から崇徳へと改号した

 このような改号は皇太極の遠大な戦略的思想によるものであった。そもそも歴史上女真族の建てた金朝は漢族に対して残酷な掠奪と圧政を振るった経緯があり、漢人の印象を和らげるために金及び女真の名称を避けたことと、加えて明朝を建てたのが朱姓で、明・朱はともに火を意味し、漢族の五行占いでは火は金に勝り、火を滅ぼすのは水とされることから、いずれもさんずいのつく清、満洲の文字を用いたものであった。

 即位以来明軍との戦いで常に勝利を収めた皇太極は、清朝建立後急速に封建国家としての行政機構を固め、后妃制度、祭祀制度、朝会制度、聴政制度、冠服制度などを次々と定め、国家体制の基盤を確立した。

 1643年皇太極は急逝し、清政権内部には再び皇位継承をめぐって激しい闘争がくりひろげられた。

三、世祖・順治帝福臨(在位1644~1661)

 太宗・皇太極が亡くなった時、皇位をうかがっていた王侯には、努爾哈赤の二子・礼親王代善、十二子・英親王阿済格(アジか)、十四子・睿親王多爾袞(ドルグン)、十五子・豫親王多鐸、皇太極の長子・粛親王豪格などがおり、その争いは極めて熾烈であったが、結局1644年皇太極の九子で僅か六歳の福臨を即位させ、多爾袞と鄭親王済爾哈朗(ジルハラン、努爾哈赤の母弟・舒爾哈斉の子)が攝政として大権を掌握した。

 多爾袞はただちに大軍を率いて南下し、山海関を越えて李自成率いる農民蜂起軍と明朝を相手に天下争奪の戦いを挑んだ。折しも李自成軍は北京に侵攻して明朝最後の皇帝・崇禎帝も縊死、明軍山海関総兵の呉三桂は主を失って、南進する清軍に抵抗しなかったばかりか、積極的に清軍の北京進攻を支援した。明朝を倒して即位したばかりの李自成はたちまち北京を追われ、福臨が北京の玉座についていよいよ清朝の天下が始まった。

 それまで漢族の明朝が支配してきた漢民族の地に少数の満族による政権を確保するため、攝政多爾袞はまず漢族地主階級を大量に高位の役職に起用して籠絡し、明朝皇室の一族を優遇し、科挙制度(官吏登用資格試験)を導入して封建支配を強めるなど、剛柔両様の積極的融和策を計った。一方清政権内では、鄭親王済爾哈朗、粛親王豪格などの保守的勢力と多爾袞の間で激しい権力闘争が絶えなかったが、幼帝福臨を盾にした多爾袞は次第に権力を手中にし、豪格は1648年捕えられ獄死した。皇太極から始まった凄惨な権力闘争による中央集権化は順治代初期の五、六年で多爾袞により一気に進展した。

 その多爾袞も1650年三十九歳で病死した。それまで多爾袞の強権圧制により封じこめられていた問題が一度に噴出した。この時すでに十三歳に達していた福臨が実質的な皇権を回復する機を得たこと、多爾袞に抑圧されていた済爾哈朗をはじめとする王侯たちが一斉に権力奪回に動き始めたこと、更には多爾袞の信任を得て地位を得ていた高官たちが懸命の保身をはかったことなどが重なって、政局はたちまち大混乱に陥った。

 有力者の一人多鐸は多爾袞に一年先だって病死しており、済爾哈朗にとって最大の政敵は阿済格であった。済爾哈朗はまず阿済格に罪を着せ一切の権力を剥奪、一派の勢力を排して自らの地位を固めた。赫々たる業績をたたえられてきた多爾袞は、死後僅か2ヶ月にして千古の罪人の汚名を着ることになった。

 順治帝福臨は親政を司る上で多爾袞の路線を踏襲し更に皇帝への中央集権化をはかった。まず兵力を直接統轄とし、内閣を設立し、宮中規章制度を定めるなど、更に国家体制を整えていた。

 福臨の即位から親政にかけて、大きく影響を及ぼした人物がいた。福臨の生母博爾吉特(ボルジチダ)氏である。清朝宮廷の規定では婦人は表に出ずとされていたため文献記録は殆ど残されていないが、一説には清末の慈禧西太后に比肩されるほどの重要な役割を果たした。彼女はモンゴル貴族の生まれで、皇后のめいでもあり、1625年姉(宸妃)と共に皇太極の妃(永福宮庄妃)となり一男三女をもうけた。実子福臨が即位したことにより昭聖慈寿皇太后の尊号が贈られ、康熙帝の即位後は太皇太后となり、死後孝庄仁宣誠憲恭懿至徳純徽翊天啓聖文皇后の謚号が贈られた。略して孝庄文皇后と呼ばれる。

 虚弱体質の福臨は成年に達した頃から急速に熱狂的な仏教信者となった。1660年、妃の一人で特に寵愛していた董鄂氏が病死し、福臨も半年を経ずしてよ翌1661年天然痘を患い死亡した。福臨の死については、董鄂氏の死を悲しんだ福臨が皇位を捨てて出家して五台山に上り、悲嘆のうちに世を去ったという伝説があるが、正確な記録によればこれは事実ではなく、闘病祈祷のうちに養心殿で病死した。年僅か二十四歳であった。福臨は死に臨んで千字を超える遺書をしたため、その中で自らの三字で僅か七歳の玄燁を皇位継承者に指名した。

四、聖祖・康熙帝玄燁(在位1662~1722)

 皇太子としてはいえ玄燁の幼児期の生活は必ずじも幸せなものではなかった。その頃父親の順治帝は皇貴妃・董鄂氏を寵愛していて、きさきの中でも封号すら与えられていなかった身分の低い佟佳氏を母として生まれた玄燁は、疱瘡にかかったことを口実に城外に出され乳母の手で育てられた。順治帝は子供の養育に関心が薄く、玄燁は祖母である孝荘文皇后により厳格にしつけられた。1661年病状が悪化した順治帝は、玄燁が疱瘡を克服して生き残ったことと、厳格な教育を受けて育ったことを理由に皇太子に指名した。

 1662年八歳の玄燁が康熙帝に即位し、先帝の遺命により索尼(ソニ)、蘇克薩哈(スカサハ)、遏必隆(オビロン)、鰲拜(アオパイ)の四人が輔政大臣に就任した。四人はいずれも済爾哈朗派の内大臣で皇族ではなく、順治帝は多爾袞の専横によって生じたような権力抗争が再現しないようにという配慮からこの四人を指定したのである。

 当初は年長の索尼が中心となって満族の伝統を重んじる保守的政策が復活されたが、やがて先代同様の権力争いが激化し、序列最下位の鰲拜は蘇克薩哈を殺害するなど強引な手段で権力を独占するに至った。

 1668年十四歳に達した玄燁が自ら政治を行うこととなって、鰲拜は急速に権力を失い、翌年遂に大罪を犯したとして処刑は免れたものの失脚した。

 入関後僅かに二十四年の清朝に君臨した康熙帝は国家体制を整えるため次々と新しい制度を策定した。まずそれまで曖昧であった后妃制度を確立し、皇后以下八段階の后妃の階級を定めた。また内務部の機構を大幅に改革し、財務・儀礼・軍事・刑事・宮廷営繕・牧畜・御園行宮・宮廷雑務等々の部門を整えた。

 康熙帝は向学心が極めて強く、生涯に学んだ知識教養は文学・歴史・経学・天文・地理・数学・医学・言語学・音楽等々極めて広範囲に及んだ。紫禁城内に、文学者たちが皇帝に詩文書画を指導する南書房と、学者が皇子たちに学問を教える上書房を設け、大いに学問を奨励した。自ら修得した広範な学識をもとに、理学的思想で国土を統治し、全土の実測地図の作成、栽培植物の品種改良、康熙字典の編纂等々、国家の近代化・学術振興に重大な業績を残した。

 康熙帝にとって最大の心労は帝位継承者の選出であった。康熙帝には三十五人の男子があり、夭折した者を除いても二十四人が対象の範囲にあった。帝位継承をめぐっては歴史的にも常に骨肉相食む抗争が生じている。康熙帝は1675年と1709年の二度にわたって二子胤礽(いんじょう)を皇太子に立てながら、いずれも派閥対立を招いてこれをとりさげ、結局1722年六十九歳で病死する臨終の床で四子胤禛に譲位することを布告した。

五、世宗・雍正帝胤禛(在位1723~1735)

 康熙帝は清朝の発展に顕著な業績を残したとはいえ、政治的にはなお二つの重大な過失を犯したかもしれない。その一つは皇太子の指名に迷って最高統治者集団に深刻な分裂をもたらしたことと、もう一つは臣下官吏に対して優柔不断に過ぎて官僚の私利腐敗を見過ごしたことである。雍正帝胤禛はまさにこのような政局と社会背景の中で即位した。

 雍正帝の突然の出現は、それまで数十年にわたって帝位をうかがっていた大勢の兄弟たちとそれぞれの支援者たちにとっては寝耳に水の事態で、相互に跡目を争ってきた皇子たちも雍正帝に対抗する点では利害が一致し、政局はたちまち大混乱に陥った。

 このような事態に対処するため、雍正帝は即位後ただちに八弟允禩(いんし)・十三弟胤祥(いんしょう)・大学士馬斉(ばさい)・尚書隆科多(りゅうかた)の四人を総理事務王大臣にとりたてた。允禩は雍正帝にとって反対派の中心人物であり、隆科多は軍事力を掌握しており、胤祥は弟たちの中で最も信頼し得る人物、馬斉はかつて康熙帝に懲罰を受けた老臣で、これらの人物を一躍抜擢籠絡することで時局を安定させようとした。しかし八弟允をはじめ九弟允禟(いんとう)・十弟允(いんが)・十四弟允禵(いんてい)など兄弟たちとその郎党と雍正帝の間の確執は激化の一途をたどり、遂に雍正帝即位の僅か四年後には允禩・允禟すらも獄死するに至り、一時は功臣として重用された隆科多・年羹尭など皇権に影響を及ぼす恐れのある新興勢力にまで及ぶ悲惨な大粛清を経て、康熙代から二十年にわたる帝位争いは漸くひとまず終息した。

 このような皇室内部の闘争は人民の間に重大な後遺症となってあらわれた。折りしも康熙代末期から雍正代初期にかけて全国的に自然災害が多発し、加えて地主階級による残酷な搾取と地方官僚の腐敗に苦しむ人たちの不満の矛先は、允禩たち反皇派の宣伝に煽動されてすべて雍正帝こそ元凶とする流言が全土に蔓延した。こうした事態に対処するため、雍正帝は「大義覚迷録」なる長文の一書を全国に発布して流言を打ち消し、軍機処(執政の中枢機構)を新設して権力の集中につとめ、また官学(皇族・貴族の子弟を教育する機関)を充実させて皇権の安定をはかった。

 朝廷の安定にとって皇位継承がいかに重大な問題であるかを身をもって知った雍正帝は、即位後早々に秘密立太子制度を制定し、皇帝が一存で定めた皇太子の名を記した書面を箱に入れて密封し、城内乾清宮に掲げられている順治帝筆「正大光明」の額の後に隠し、皇位継承の時到るまで開封しないことを定めた。こうして雍正帝は在位期間中皇太子の問題でわずらわされることを免れた。

 雍正帝はもともと頑健な体質ではなかったが虚弱というほどでもなかった。四十五歳で皇位につき、政敵と闘争に明け暮れながらも朝政の激務に精勤し、即位後七年余にして重病に倒れた。一時は生命が危ぶまれる状態に至ったが幸い一命をとりとめた。この時道士(道教の修業者)の治療に頼ったことが後雍正帝の命運を左右することになったかもしれない。父・康熙帝は不老不死の秘薬の存在を一笑に付したが、雍正帝は道士の進めるままに長期にわたって不老不死の丹薬をあまりにも大量に服用しつつ次第に衰弱し、在位十三年、五十八歳で死亡した。

六、高宗・乾隆帝弘暦(在位1736~1795)

 雍正帝が没し、その時漸く明らかにされた遺命により四子弘暦が皇位を継承して乾隆帝に即位した。もともと弘暦は兄弟のうち才覚の上でもまた政治的にも最も優位な立場にあり、年令も二十五歳で十分な教養と経験を積んでいたため、表向き誰が継位するかは秘密であったとはいえ、それが弘暦であることは早くから衆目の一致していたところで、こうして弘暦は順調に政権を掌握した。

 弘暦は1711年8月雍和宮で生まれた。母は四品典儀凌柱の娘鈕祜禄(ニョウフル)氏である(その出生地や血筋についてはさまざまな誤記・伝説が流布されている)。少年時代から祖父康熙帝に可愛がられ、勉学に励み、雍正帝末期には父の信任を得て苗族との戦いを指揮して勲功をたてた。

 父雍正帝が築いた比較的安定した政治基盤の中で1735年皇位を継承した乾隆帝は、ただちに雍正帝身辺にいた道士・僧侶をすべて追放し大監たちを厳重な管理のもとにおいて宮廷内の人心の安定をはかった。またそれまで雍正帝と対立して処罰を受けていた皇族とその子孫を赦免して融和を図る一方、なお皇権を危くするおそれのある対立分子を拘束・処分して皇権を更に強固なものとした。

 政治基盤が安定するにつれ乾隆帝は、宮中典章制度を更に充実させて内廷の事務的管理を強め、皇子の教育環境を整え、克明な宮廷史を編纂して宮廷秩序の維持をはかった。この時代、規模の大きい戦いがなかったため社会の産業も大いに発展しており、租税・地代・年貢のとりたてを強化して、宮廷経済はまさに黄金時代を迎えた。宮廷の式典・祝宴は盛大華美を極め、宮殿・庭園は粋を凝らし、詩歌文芸・歌舞音曲・書画工芸が一世を風靡した。

 先帝の定めた秘密立太子制度に従って、乾隆帝も即位後ただちに密旨を作成したが、指名した二子・永璉が二年後に八歳で夭折したため失効し、その後三十五年を経て再び密旨を作成した。更にその五年後、、1778年即位四十三年に達した乾隆帝は、在位六十年になれば皇位を譲ることを宣言した。事実在位六十年に達した乾隆帝は1795年密旨を公開して十五子顒琰(ぎょうえん)を皇太子に立て、翌年大権を譲渡して嘉慶帝に即位させた。

 一見皇位に執着しないかに見える退位であったが、太上皇帝となった弘暦は「訓政」としてなおも実権を保持し、1799年八十八歳で没するまで実に六十三年の長きにわたって黄金時代の清朝に君臨した。

七、仁宗・嘉慶帝顒琰(在位1796~1820)

 乾隆帝には十七人の息子が生まれた。そのうちすでに述べた二子永璉を含めて七人が十歳未満で死亡、長子永璜・三子永璋・五子永琪も二十代で死亡し、乾隆三十八年(1773年)の二度目の皇太子秘密指名の時には存命していたのは七人に過ぎなかった。その中で四子永珹と六子永瑢はすでに養子に出されており、十二子永璂はその母烏拉納喇氏が皇后の地位を追われていたため不適格とされ、皇位継承者として残されたのは八子永璇・十一子永瑆・十五子顒琰・十七子永璘の四人に過ぎなかった。乾隆帝はこの四人のうちから年令的に最適であるとして顒琰を選んだ。

 顒琰は六歳で学問を始め、十三歳ではすでに五経に通じ、他の皇子に較べて著しく聡明であった。乾隆五十四年(1789年)に嘉親王に封ぜられると、以後毎年の祖廟の祭祀には皇帝の代理に任ぜられ、誰の目にも皇位継承者であることが予見された。

 1796年皇位は顒琰に譲られたが、大権の実質はなお先帝の手中にあった。1799年正月、弘暦が逝去すると顒琰はただちに親政に乗り出した。まず軍隊の腐敗ぶりを指摘し、管掌大臣と将領たちを厳しく戒めた。同時に中央・地方の官吏たちが私利私欲を貪って民衆が榨取に喘いでいる情況の責任を追及した。それは先帝の政策上の過ちを指摘することもあった。

 特に嘉慶帝が断罪したのは和珅の権力濫用事件であった。和珅は満族正紅旗人の家に生まれ、若くして学位をとり近衛将校をつとめていたが、乾隆帝に認められてたちまち御前大臣に昇りつめ、御意を得て乾隆帝第十女と結婚した。軍事上、また政治上にも特別の功績もないまま乾隆帝の偏寵にあやかった和珅は、地位を利用して威信を誇り私欲に溺れ、和珅の存在は結果として統治階級内部に、また文官武官の姿勢に重大な悪影響を及ぼしていった。康煕代以降続いていた太平の世の中で、官僚の間には腐敗が蔓延し庶民は貧困に苦しみ、嘉慶帝としては宮廷の実権を握る和珅を即刻断罪せざるを得なかったのである。和珅は捕らえられ、獄中で自尽を賜った。

 和珅が除かれて宮廷は一時的にほぼ平穩をとりもどしたかに見えたが、社会不安はなお激化しつつあり、各地で暴動が発生していた。特に嘉慶帝即位の頃には四川・湖北・陝西・甘粛・河南の地方で白蓮教の蜂起が発生し、宮廷に深刻な影響を与えていた。一方宮廷内でも、例えば嘉慶八年(1803年)閏二月には、紫禁城内で石炭貯蔵庫から出火したり、嘉慶帝が南苑に行く途中かごかきが肩から棒を落とすとか、大臣たちに謁見中皇帝の前を太監が横切るなど、官員の綱紀も乱れていた。

 同じ月、嘉慶帝が円明園から紫禁城に帰ってきた時、神武門から順貞門に向かおうとしたところで突然ナイフを持った男が皇帝のかごに突進した。その時周囲には百人以上の者が護衛にあたっていたが、そのうち六人が男にとびかかってとりおさえ、幸い皇帝は難を免れることができた。その他の百余人はただ手を拱いて傍観するばかりだった。

 犯人は陳徳という四十七歳の貧しい労働者で、失業と生活苦に追い詰められ、死を選ぶ手段として犯行に及んだもので、特別の背後関係はなかった。当然ながら陳徳は特別の極刑「淩遅」で処刑され、十五歳と十三歳の二人の息子も絞首刑に処せられた。

 この暗殺未遂事件は宮廷を震撼させ、宮廷の規律の腐敗と警備の怠慢を浮き彫りにした。嘉慶帝は決して無能な君主ではなかったが、百年来続いている平和の中で宮廷内の気のゆるみと腐敗に対する認識が十分ではなかったかもしれない。事件直後こそ綱紀と警備は厳重になったが、時がたつにつれまたさまざまな小事件が続発するようになった。

 嘉慶十八年(1813年)九月、嘉慶帝が狩猟と避暑で山荘の行宮に滞在していた時、紫禁城で大変な事件が発生した。天理教(八卦教)が蜂起し、林清を首領とする百人近い武装集団が城内の数人の太監の手引きで東華門と西華門からなだれこんできた。三日にわたる激戦の末一味全員が殲滅されたが、この時蜂起に加担した太監の数は四十八人にも達し、再び城内の腐敗ぶりが露呈された。この事件もまた貧民・奴隷・下層兵士たちの封建統治者に対する反抗で、陳徳の暗殺未遂事件と軌を同じくするものであった。事件後宮廷の警備防衛態勢は更に固められ、太監の管理は厳格となり、宮廷に出入する者の審査も厳しくなった。

 1820年7月、避暑山荘を訪れていた嘉慶帝が急逝した。二十五年にわたった皇帝生活は必ずしも意のままにはならなかったが、それでも豪華な宮廷生活は十分に維持することができた。二人の皇后・二人の貴妃・四人の妃・六人の嬪・一人の貴人を侍らせ、男子五人・女子九人をもうけた。享年六十一歳であった。

八、宣宗・道光帝旻寧(在位1821~1850)

 嘉慶帝は死に臨んで大臣たちを枕元に呼び、いつも身につけていた皇位継承者を指定する密旨を開かせ、二子綿寧(後に旻寧と改名)を皇太子に立てることを宣布した。

 翌月旻寧は即位し、年号は次の年を道光元年(1821年)と定められた。先代・先々代の皇帝の即位と異なって、道光帝の即位は順調に行われた。旻寧は嘉慶帝の二子ではあったが、長子が生後二ヶ月で夭逝したため、実質的には長子の地位にあった。また皇位継承者は秘密とされていたものの、嘉慶帝が常々旻寧を特別扱いしていたため、事の次第は誰の目にも自然であったし、旻寧自身も意識して帝王学の研鑽に努めていたからである。しかし即位後のまつりごとは必ずしも容易ではなかった。

 道光帝は即位した時すでに満三十八歳に達しており、血気盛んな若者ではなかった。加えて皇帝をとりまく大臣・大学士たちはいずれも乾隆年間から仕官している老人ばかりで、何をするにも慎重で、宮廷内部は全く平静を保っていた。老臣たちは皇帝に対して極めて柔順で、ただ皇帝に迎合して保身することに百計を弄し、「多磕頭少説話(たくさんおじぎをして口数を少なくする)」ことを宗とした。必然的に宮廷では進取の気概が消え、権謀術数の腐敗が浸透していった。

 道光帝は即位後間もなく倹約を奨励する通達を発した。倹約をたっとぶことは本来清朝歴代皇帝の推奨した家法であり、基本的な国策でもあった。国内の人口は日を逐って増加し、乾隆代中期に一億五千万だったのが、道光代には三億五千万に達していたが、農業生産量はむしろ減少の傾向にあった。軍需は増大し、天災と、それに対する治水工事の負担も重なって、社会全体が貧困の危機に直面していた。当然ながら租税のとりたても滞りがちで、宮廷経済は宮殿営繕費の支払いにもこと欠く状態となり、倹約を呼びかけざるを得ない状態にあったが、それでもなお皇帝自身は国内はもとより宮廷内の困窮状態についてすら十分な認識を持っていなかった。

 道光帝の最大の事業は自らの陵墓を建造することにあった。道光元年(1821年)、東陵の繞頭峪を陵墓の地と定め、ただちに造営工事に着手した。工事は六年を費やして完成されたが、二十年前に亡くなった皇后の柩の仮安置所として使おうとしたところ、棺堂には湧出した地下水が溜まって使いものにならなかった。原因は工事の節約を命じたことにもよるが、むしろ施工中の工事材料のごまかしと、工程の手抜きによるところが大きかった。

 次いで道光十一年(1831年)、西陵の先帝の陵墓の西数里のところに場所を定め、龍泉峪と名づけて新しい陵墓を建造した。倹約を指示しただけあって、確かに陵墓の規模は先帝・先々帝にくらべると小さかったが、内部の設備は決して劣るものではなく、二度にわたる造営工事に要した費用は膨大な数字となり、道光帝の唱えた「倹約」も周囲の人の耳には空念仏にしか聞こえなかった。

 道光帝は生涯を通じて二十余人の后妃を娶り、九男十女をもうけた。長子奕緯は四子奕詝が生まれる二ヶ月前に死んでおり、二子奕綱・三子奕継は幼逝、五子奕は道光二十六年(1846年)に惇親王綿愷(道光帝の弟)のあとつぎとして出されていた。道光帝が皇太子を秘密指名するにあたり最も迷ったことは、序列としては四子奕詝が最適であったが、六子奕訢が文武両道に秀でた才能を見せていた点であった。七子奕譞・八子奕詥・九子奕謨は年令上対象外にあった。

 道光三十年(1850年)、道光帝の病状が悪化し、皇位継承の密書が開封された。そこには、四子奕詝を皇太子とし、六子奕訢を恭親王に封ずる、と記されていた。

 道光帝は六十九歳で逝去した。

九、文宗・咸豊帝奕詝(在位1851~1861)

 奕詝が即位し、翌年の年号が咸豊元年(1851年)と定められた。先帝の遺詔により奕訢を恭親王に封ぜられ、咸豊三年(1853年)軍機大臣に任ぜられた。もともと奕訢は傲慢尊大な性格で、事あるごとに自分の憶測をまじえた見解を主張した。咸豊帝はこのような奕訢をこころよく思わず、次第に兄弟間の感情の亀裂が深くなり、遂に奕訢の生母の尊号の問題で対立が決定的なものとなった。

 奕訢の生母は、はじめ貴人の身分で宮廷に入り、道光帝のおぼえめでたく、やがて咸豊帝の生母である皇后が死亡すると皇貴妃の地位まで引き上がられた。咸豊帝は生母の死後奕訢の生母の手で養育され、彼女に対して自分の母に対すると同じような敬慕の念を抱いていた。咸豊帝の即位により奕訢の生母は皇貴太妃に封ぜられたが、彼女には自分が咸豊帝を育てたという自負があり、皇太后の尊号が与えられることを強く願った。その思いは奕訢にとっても切実であった。咸豊帝自身も奕訢の生母を昇格させることを考えなかったわけではなかったが、清朝歴代の皇太后の中で、元皇后か、或いは皇帝の生母以外で皇太后の地位を与えられた者の例はなく、何よりもそうすることによって奕訢の政治的地位が有利になることこそ、咸豊帝が最も忌み嫌う点であった。咸豊五年(1855年)、奕訢の生母が重病におちいった時、奕訢は咸豊帝に母親の昇格を迫り、激怒した咸豊帝は奕訢から大臣の地位を剥奪した。彼女の死後、咸豊帝は特例として皇后の謚(おくりな)を与えたが、歴代皇太后と区別するため、道光帝の謚である「成」の字を付して「成皇后」とするべきところを、ただの「皇后」とした。(後に同治帝即位の時「成皇后」の謚が与えられた。)

 奕訢は咸豊七年(1857年)都統の地位に復帰したが、この頃咸豊帝周辺では粛順一派が強大な勢力を形成して奕訢に対抗し、以後咸豊代を通じて奕訢が帝の信任を得ることはなかった。

 咸豊帝の統治が始まった直後の1851年、広西の洪秀全が率いる太平天国革命が勃発した。続いて英・仏連合軍が第一次アヘン戦争で獲得した権益を拡大しようと、帝制ロシアとアメリカの支援のもと、新しい侵略戦争・第二次アヘン戦争を開始した。腐敗に溺れていた清朝政府には敵する力もなく、1858年、屈辱的な天津条約に調印した。

 咸豊帝の外交政策の失敗はこれにとどまらず、1860年、英・仏連合軍は大沽砲台を占拠すると、一挙に天津を陥落させ、更に北京に迫った。

 敗色濃しと見た咸豊帝は、英・仏との講和にあたらせるため、奕訢を北京に残して、粛順や皇后、五歳になった息子の載淳とその母をともなって熱河に逃げれた。北京に残された奕訢にはもはやなすすべはなく、要求されるままに英・仏との和議に調印した。

 この戦火で北京西部の円明園に重大な被害が生じた。円明園は康煕代に建造が始まり、以後各代にたえず拡大増建されて、世界でも有数の宏大壮観な宮苑を形作っていた。歴代帝后の休養所として、また政務の重要な拠点として使用され、園内には膨大な図書・芸術品が保管されていた。侵入した英・仏軍の手により、宝物の大部分は掠奪され、建物は焼き打ちに遭った。

 その間、皇帝に随って熱河の山荘に避難していた粛順一派と、北京に残された奕訢一派の間には激しい勢力争いが生じていた。粛順は鄭親王端華の弟で、咸豊帝の重用を受けて権力を得、熱河では体力の衰えた皇帝に変わって着々と大権を掌握しつつあった。一方、奕訢は皇帝の異母弟でありながら不遇をかこっていたが、北京に残されて外国との交渉にあたったことから、中国に対する影響力を増大していた外国の強い支持を受けて勢力を拡大し、到底粛順の強権のもとで甘んじることはできなかった。

 外国にとって皇帝が遠く熱河に逃げれて粛順の手中にあることは愉快なことではなく、それは奕訢にとっては政敵粛順との権力争いで大いに利するところであった。一方皇帝を擁する粛順一派にとっては、清朝の国政を外国の干渉から守るという大義のもとで、外国勢力と結託する奕訢は憎むべき存在であった。こうして両者が互いに対立したことは、結果として大いなる野心を抱いていた懿貴妃(載淳の母・後の西太后)に絶好の条件を作り出すことになった。

 年が明けて1861年、肺病を患っていた咸豊帝の病状が悪化した。臨終の床で、咸豊帝は側近を集め、長子載淳を皇太子に立てること、載垣・端華・景寿・粛順・穆蔭・匡源・杜翰・焦裕瀛の八人を補佐大臣とすることを申しわたした。

 咸豊帝はこうして紫禁城に帰ることなく、国の混乱の中で逝去した。まだ三十一歳の若さであった。

十、穆宗・同治帝載淳(在位1862~1874)

 咸豊帝の遺言により粛順一派はひとまずの勝利を得た。粛順たちは勢力をより強固にするため奕訢が熱河に来ることも拒んだ。粛順は奕訢ばかり政敵として警戒していたが、もう一人、新皇帝載淳の母がいることに気づいていなかった。咸豊帝は晩年内憂外患の中で健康を害し、しばしば政務を懿貴妃に代行させていたため、彼女は政務にもまた宮廷の勢力地図にも精通していた。更に咸豊帝は後事を八大臣に託するにあたって、すべての裁決には皇后と載淳の印を得なければならないと遺言しており、五歳の載淳の印がその生母懿貴妃の手中に落ちるのは自然のなりゆきであった。

 咸豊帝崩御の翌日、しきたりに従って皇后と懿貴妃が皇太后となった。この頃熱河行宮では皇后は東暖閣に、懿貴妃は西暖閣に起居していたため、それぞれ東太后・西太后と呼ばれることになった。本来太后には行政上の権限はなかったが、先帝の遺志により両太后の垂簾聴政が出現し、はじめて粛順たちは奕訢よりも更に強力な政敵の存在に気づいたのである。

 粛順がすでに強大な勢力を手にしていることを心よく思わなかった西太后は、温順な東太后を言いくるめ、北京の奕訢と密かに謀議をこらし、先帝の柩を北京に移送する機に乗じて粛順一派を一網打尽にして、粛順・載垣・端華を処刑した。あらためて載淳の即位の式典がとり行われ、すでに公布されていた祺祥という年号は廃され同治と改められた。世にいう「北京政変」、「辛酉政変」である。

 咸豊代以来一時は天下を席巻する勢いを見せた洪秀全率いる太平天国革命はやがて鎮圧され、なお各地で清王朝の封建統治に反対する運動は続いてはいたが、実質的に西太后が采配を振る朝政は暫時の安穏を得、次第に西太后の独裁態勢の基礎が固められていった。後に、「同治中興」と呼ばれるこの時期、サリとて特に世が栄えたわけではなく、蓋し無為のひとときに過ぎなかった。

 粛順一派の掃討で功をなし宿敵を葬った奕訢は、外国勢力の信任も厚く、たちまち太后をも凌ぐほどの権勢を手にしたが、無論それは西太后の容認することはなく、遂に大権発動の前に一切の政治地位を失った。

 幼帝載淳が成長して、垂簾聴政の名のもとで両太后に握られていた大政が奉還されなければならない時が来た。同治帝の即位から十一年、載淳が十六歳に達した1872年、おきさき選びが行われることになり、載淳は東太后の推す女性を皇后に、生母西太后の推す女性をほかの二人の女性とともに下位のきさきに選んだ。載淳母子の間に、大権の問題のみならず皇后選定についても確執が存在したことは想像に難くない。

 大婚の翌年大政は載淳の手に返された。しかしなお西太后はことごとに朝政に干渉し、母子の争いは絶えることがなかった。

 漸く親政が始まって二年に満たない1875年1月、同治帝は十八歳で病死した。天然痘によるものと伝えられている。それから僅か二ケ月余、当初から西太后に疎んじられていた皇后も急死した。服毒による殉死とされている。

十一、徳宗・光緒帝載湉(在位1875~1908)

 同治帝が若くして急逝し、皇子もなかったため、皇位継承者の選定が重大な問題となった。ただちに両太后を中心に審議が行われ、醇親王奕譞の二子載湉を咸豊帝の嗣子として皇位を継続させることが定められ、更に載湉に男の子が生まれた時は、その子を同治帝の嗣子に立てて皇位を継承させることが定められた。恒例に従えば、載淳の次の世代、つまり「溥」の世代から選ばれるべきところを、あえて西太后の実妹の子で僅か三歳の幼児をわざわざ伯父にあたる咸豊帝の子に仕立てて帝位を継がせた裏には西太后の特別の意図が見え隠れし、先帝と皇后が若くして急死したのもあながち偶然ではなかったかもしれない。ともあれ載湉が即位し光緒と改元されて、再び両太后による垂簾聴政が復活した。なお1881年、東太后が突然変死して、垂簾聴政に臨む者は西太后一人となり、西太后はいよいよ名実ともに清王朝の最高統治者として君臨することになった。

 再び皇帝が十分に成長して大政を奉還する時が来た。皇帝が十五歳に達した1886年、周囲の圧力に抗しきれず漸く西太后が奉還を宣言すると、皇帝の父奕譞をはじめ大臣たちから皇帝が親政を始めてもなお「訓政」にあたるよう請願が出され、こうして西太后は表面上は大政奉還の名分を立てながら実権を手中に留めた。

 1888年十七歳の皇帝の皇后として、西太后は自分の弟桂祥の二十歳になる娘を指名した。本来光緒帝は西太后の妹の子であり、今また弟の子と結婚させ、その間に生まれる子はすでに同治帝の嗣子として帝位を継承することが定められていたので、皇帝一族はますます西太后の身内の者で固められることとなった。

 大政を奉還した西太后は以後頤和園(いわえん)に移り住み、日々山水に囲まれ劇を楽しみ書画に親しんでいるかに見えたが、実際には皇帝の親政は有名無実で、光緒帝は西太后の繰る傀儡に過ぎなかった。長期にわたり政権の座にあった西太后の周辺には、西太后の信頼厚く、既得の権益を守ろうとする者が保守的政治集団を形成しており、「后党」と呼ばれるこれらの者は民族存亡の危機を顧みず、外国勢力の侵略にも手を拱いて、ひたすら封建秩序の維持に腐心していた。一方光緒帝の周辺には外国の影響を受けて維新を唱える「帝党」の集団があり、特に西太后の朝政干渉に強く反発していた。両派の対立は1894年日清戦争の勃発とともに急速に激化し、敗戦後はそれぞれに外国勢力も巻き込んで遂に戊戌宮廷政変へと発展していった。

 国内では康有為を中心として民族の危機を憂う維新派が社会改革を目指して変法維新の運動を起こし、帝党はこれに同調して実権の奪回をはかった。1898年(戊戌の年)、光緒帝は新法を発布して新政を開始した。しかし天下の大勢はなお実質的に西太后の掌中にあり、事態の推移は到底西太后の容認するところにあらず、遂に新法発布から僅か百三日で光緒帝は病気を理由に宮城の西に隣接する南海の「瀛台」に幽閉され、新法はすべて撤廃、西太后は「訓政」を要請されたとして再び朝政の表舞台に立った。

 西太后と后党は戊戌政変では勝利を収めたものの、すでに六十歳を越えた西太后の身に一旦何かおこれば政権は当然光緒帝に返されることは明らかで、その時后党の者たちがたどる自らの運命も容易に予見されることであった。1899年西太后は載漪(さいい)の子でまだ成年に達していない溥儁(ふしゅん)を同治帝の嗣子とした上で帝位の継承者に指名し、光緒帝が重病にあるとして帝位を溥儁に譲ると発表した。溥儁の母は、またもはや西太后の弟・桂祥の娘であった。このあからさまな帝位の譲渡はさすがに諸外国の承認を得られず、実現には至らなかった。

 朝廷内部が政権争いに明け暮れている間に、外国勢力の干渉はますます激しくなり、一方国内では外敵と朝政に反抗する義和団が強大な勢力を形成していた。1900年(庚子の年)、西太后は義和団の勢力を利用して侵略八ヶ国の連合軍に対する宣戦を布告した(庚子事変)。戦火はたちまち北京に迫り、西太后は皇帝・皇后を連れて北京を脱出、遠く西安へ落ち延びた。戦況は西太后に利あらず、翌年(辛丑の年)連合軍が示した屈辱的な条件をのんで「辛丑条約」に調印、一年四ケ月にわたる流亡の生活を終えて北京に帰還した。

 政権上西太后と光緒帝の関係は再び以前の状態に戻った。病弱の光緒帝にはもはや西太后に抗する気力はなく、その西太后にも国を挙げて革命に走る時代の流れを制する余力はなかった。

 1908年、光緒帝の死期が迫ったことを知り、自らも余命いくばくもないことを悟った西太后は、帝位継承者として溥儀を指名した。この時溥儀は二歳。そしてその母は西太后の最も古い特別の腹心栄禄の娘であり、最後までとどまることを知らなかった西太后の政権に対する執念を見ることができる。溥儀を指名した翌日光緒帝崩御、その次の日西太后も七十四年の人生に幕をおろした。

十二、宣統帝溥儀(在位1909~1911)

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